(31)NO? -第2章-

 

時は遡って一日前。

午前10時の休憩時間のユンのオフィス。

 

~民~

 

ユンさんは靴を履いたままソファに横になり、雑誌をめくっていた。

 

(外国の雑誌だ...すごいなユンさん)

 

ユンさんにコーヒーのカップを手渡すと、彼に促されて向かいの一人掛けソファに腰掛けた。

私はコーヒーとお茶菓子のクッキーを交互に口に運びながら、掘りの深いユンさんの横顔を観察していた。

 

(ユンさん...リアさんと一緒に住んでいるなんて...。

あのキスマークはつまり、リアさんに付けられたものなんだ)

 

視線が第3ボタンまで開けた胸元に移しそうになるのを、ぐっと堪えた。

 

(危ない危ない!)

 

首を振っていたところ、「俺の分はいいから、食べなさい」とユンさんはクッキーが乗った皿を指さしていた。

 

「...はい...すみません」

食い気が勝ってしまう自分は、つくづくお子様だ、お裾分けされたクッキーを口に運んでいると。

 

「昨日は驚かせてしまったね」

 

いつこの話題が出るのか、朝からドキドキしていたのだ。

 

「...はい」

「民くんは彼女と知り合いだったんだ?」

 

チャンミンさんとリアさんが同棲していたところに住まわせてもらっていたと、正直に言ったらいけない。

チャンミンさんとユンさんの態度を見る限り、リアさんはチャンミンさんとユンさんの両方と関係があったことを知らないようだ。

...リアさんの浮気相手がユンさんだったことを、チャンミンさんは知らない。

 

ん?

 

リアさんにとって、ユンさんとチャンミンさんとどちらが本命だったんだろう...!

 

どうしよう...どうしよう!

 

「リアさんと私は...こっちの友だちの友だち、みたいな関係で...」

「へえ...世間は狭いね。

民くんに知らせる必要は本来はないけれど、君は俺のところで働いている立場だし、教えておいた方がいいね」

 

ユンさんはソファに深く座り直すと、ぐっと私の方へと身を乗り出した。

 

「リアは俺のモデルを勤めていた。

男と女の関係だった。

しかしリアとはもう、終わっている。

今は、次の住まいが見つかるまで俺の家にいるだけの関係だ」

「はあ...そうですか」

「次のモデルは民くん、君だ」

 

ユンさんの肩から、艶やかな黒髪がすべり落ちた。

ユンさんはまばたきひとつしない。

 

「俺は真剣だよ。

だから君も、真剣に取り組んで欲しいんだ」

「......」

「俺の前に立つときは、俺のことだけを考えてくれ。

こんな言い方じゃ、誤解を生むね。

俺の前でポーズをとることは仕事だ。

アシスタントとは別に、謝礼は支払う。

いいか?

これは仕事だ」

 

ユンさんの眼から放たれたビームは、私の警戒心をたやすく打ち砕いた。

頭の芯がぽぉっとして、催眠術にあったかのような、意志が乗っ取られたような気分になった。

 

「君とチャンミン君の作品は、俺のアート人生20年の記念みたいなものだ。

例のショーウィンドウの仕上げもあるから、君たちのプライベートな時間を犠牲にさせるのが心苦しいが...」

「20年...」

 

素直に凄いなぁと思った。

 

「たまに損得考えず、インスピレーションのまま制作してみたいんだ」

「そうですか...」

「アトリエはオフィスや、リアが出入りすることもあるだろうが、適当にあしらってくれればいい」

 

ここで私は気づくのだ。

明日、チャンミンさんはここにやってくる予定になっている!

リアさんと鉢合わせしてしまうかもしれない!

今までそうならなかったことが不思議なくらいだ。

 

(どうしよう、どうしよう!)

 

「ユンさんの今日の予定は...それから明日は?」

「明日は例のカタログの最終号の打ち合わせだ。

ショーウィンドウのやつが割り込んできたから、小作品にせざるを得ないね。

チャンミン君がここに来るはずだ」

「!」

 

チャンミンさんの名前を耳にするだけで、ドッキーンとする。

耳が真っ赤になっていなければいいのだけれど...髪をかきあげついでに両耳を押さえた。

ユンさんは唇の片方だけを持ち上げた笑みが、私の反応を探る風に見えてしまう。

きっとバレているんだろうなぁと、そう思わせる余裕たっぷりの笑顔だった。

 

「ランチの時間には少し早いけど、外で食べようか?

出かける支度をしなさい」

 

ユンさんがアトリエからコートを羽織って戻ってくるまでの間に、私はお茶セットをミニキッチンへ下げた。

 

「さあ、行こうか」

 

私の背後に回ったかと思うと、ユンさんはブルゾンを羽織らせてくれた。

さりげなく背に回されたユンさんの腕。

 

「天気がいいから歩いていこう。

感じのいい店があるんだ」

 

洗練されたエスコートでありながら、拒む隙のない強引なエスコートで、ユンさんと肩を並べてビルの外へと出た。

 

(つづく)