~チャンミン~
民ちゃんが浴室へ行ってはや45分が経過していた。
リビングで膝を抱え、民ちゃんを待ち構えているうちに、湯上りだった僕の身体はすっかり冷えてしまっていた。
いくらなんでも長湯過ぎだ。
耳をすますと、鼻歌がやんでいる。
のぼせて転倒し、ぶっ倒れているのではないかと心配になってきた。
「民ちゃん?」
引き戸にかけた手が一旦止まった。
ただの長湯かもしれなかった時、「チャンミンさんのエッチ!」とビンタを食らう像が浮かんだからだ。
「どうせ後で脱ぐんだから、いいじゃないか」とか言い訳をしたせいで、もう一発ビンタを食らう像も浮かんだ。
(でも、本当に倒れているかもしれない!)
ビンタを2発食らうくらい、何事もなかった安心感と引き換えにしたら大したことない。
「開けるよ」と声をかけ、戸を開けようとしたその時、すいっと指の抵抗がなくなった。
ほわんといい香りと湿気に包まれた。
「!」
あと少しで民ちゃんと衝突するところだった。
「あら、チャンミンさん!」
湯上りほこほこ民ちゃんを目の当たりにして、僕の心臓はドッキンと...彼女に聞こえてしまうんじゃないかってくらい...音をたてた。
民ちゃんの頬は血色よくよくつやつやしている。
元からの癖っ毛らしく、濡れ髪の毛先はカーブを描いていた。
「待ちきれない蔵だったんですか?」
きょとんとした表情をしているから、僕の覗き見に腹を立てている様子はない。
(覗き見すると予測していたのかもしれない)
緊張でガチガチになっているかと思いきや、リラックスしているように見えた。
さぞかし僕は間抜けな顔を晒していたんだろう。
「チャンミンさんったら...口が開いてますよ?
ぽか~ん、って」
「えっ?
ああ...う、うん」
顔面の筋肉がだらりと弛緩してしまったワケはご承知の通り。
(すごい下着を付けているのに...)
民ちゃんは自分がどれだけ刺激的な恰好をしているかを、忘れてしまっているみたいだ。
そのことに気付いた時の民ちゃんの反応を見たかった僕は、敢えて指摘しない。
...紐パンだ。
腰骨の辺りで結ばれた紐をほどくだけで、簡単に脱がせてしまえるアレだ。
(レースと紐とどちらがいいか尋ねられた僕は、紐をチョイスした)
絶対に隠した方がいい場所のうち、さらに隠さないといけない場所の、さらにさらに隠さないといけない場所だけをぎりぎり隠した小さな三角。
当然、僕の視線は民ちゃんの顔から『そこ』へと吸い寄せられてしまった。
「......」
身体は正直なもので、きゅうっと身体の中心の圧力が増してきた。
そのまま登場するつもりだったのか、着替えの途中だったのか、民ちゃんはシャツはおろか、下着も付けていなかった。
けれど、肩にかけたバスタオルで両胸が隠れてしまっていたから、がっかりした。
僕の視線は舐めるようなものに変わってしまったらしい。
民ちゃんは、僕の表情がマジなことにハッとしたようだ。
「あわわわ」
民ちゃんがバスタオルをかき合わせるより、僕の手の方が早かった。
「頭...濡れてる」と、民ちゃんの肩から取り上げたバスタオルで彼女の頭をすっぽりと覆った。
「ドライヤーかけなかったの?」
「は、はい...。
気持ちがいっぱいいっぱいで...」
僕はここで、唇の片端だけ持ち上げる微笑を浮かべてみたりした。
僕は民ちゃんより年上で経験豊富な男なのだ。
民ちゃんから化粧水の香りが漂った。
民ちゃんの頬がつやつやなのは、付け過ぎた化粧水のせいだ。
(洗面台に黄緑色の瓶があった。へちまローション?子供の頃、母が使っていた記憶がある)
「僕が拭いてあげるよ」
濡れ髪から滴った水滴が、ちょうど民ちゃんのまつ毛に乗っかった。
その水滴はまつ毛から眼へと吸い込まれ、民ちゃんはまぶたをパチパチとさせた。
そして、僕らは至近距離で目を合わせた。
民ちゃんの色素の薄い瞳に、僕の顔が綺麗に映り込んでいる。
さすがにデティールまでは分からないけれど、どんな表情をしているかは想像がつく。
...マヂな顔だ。
民ちゃん基準のおかしなスケジュールがなければきっと、半年以上...もしくは結婚するまで...かかったかもしれない『この時』は、早いタイミングで訪れた。
いつになく『マヂな顔』...つまり『雄の顔』をした僕に、民ちゃんはどんな反応を見せるだろうか?
僕をからかう余裕なんてなくなって、襲われたいのに怯えた眼をしたりなんかして僕を煽るんだ。
僕の本心を先回りしたり、逆に思ってもいないことを挙げてみたりと、僕をドギマギと慌てさせるのが得意なカノジョ。
「......」
「......」
でも、本気になった僕を前にしたら、立場は逆転だ。
「え~っと、チャンミンさん」
「なに?」
「すごく近いんですけど...?」
いつか初キスを交わした時のように、民ちゃんの指はぎくしゃくとカギ型に曲がっている。
「うん。
近いね」
「ここは...洗面所ですよ。
べべべべべベッドへは行かないのでしょうか?」
「ここじゃ...ダメ?」
「え゛?」
「ダメ?」
「駄目です」
ぐっと寄せた僕の顔は、ぐいっと民ちゃんの張り手で押しのけられた。
「駄目じゃない」
僕は民ちゃんの手首をつかみ、力ずくで引き下ろした。
いくら民ちゃんが力持ちとは言っても、本気を出した僕の力には負ける。
「そんな凄い恰好でいるくせに、『ダメ』って言うんだ?」
「あ!」
紐パンだけでいることにやっとで気付いたらしい、民ちゃんは僕の手を振りほどき、ぺたりと床に腰を落とした。
僕も民ちゃんを追って腰を下ろし、彼女に顔を寄せるのと同時にうなじに手をかけて、「思いっきり僕を誘っているよ?」と囁いた。
ちょっとキザかなぁと思いながら。
民ちゃんの眉根にしわが寄った。
「なんか...ムカつきます」
「え?」
「エロいチャンミンさんって...ムカつきます!」
「どうして!?」
「なんとなく...」
「なんとなくって...ったく。
はあ...。
僕だって男だ」
「そうですけど。
変な感じです。
いつものチャンミンさんじゃなくて...ムカつきます」
そう言った民ちゃんが可笑しくて、僕は吹き出した。
「ぷっ」
僕は民ちゃんの腕を引っ張って立ち上がらせると、ウエストをさらって僕の腰へと押し付けた。
(ここで民ちゃんを抱き上げて寝室まで運びたいところだったけど、僕らの体格は似たり寄ったりだから、ぎっくり腰になりかねない)
「!」
「僕にムカついているのはね...」
「なっ、なんですか!」
民ちゃんの耳元にこう囁いた。
「民ちゃんは照れてるんだよ。
いつもの僕じゃないから、反応に困ってるんだ」
図星だったようで、民ちゃんの顔色がぼんっと、真っ赤になった。
威勢よく大胆なことをしょっちゅう口にしているのは、天然なところもあるけれど、照れ隠しの目的もあるだろう。
腰骨の上で結ばれた紐をほどく時まで、あと少し。
(つづく)