~僕の胸、君の胸~
~民~
翌朝、キッチンに立って卵料理を作り、テーブルに3人分のお皿を並べた。
チャンミンさんもリアさんも起きてこない。
コーヒーを淹れるのはチャンミンさんの役割だけど、寝室からはことりとも音がしないから、おっかなびっくり私が淹れることにした。
時計を見るともうすぐ7時で、チャンミンさんの出勤時間まであと30分しかない。
昨夜、リアさんの介抱をしたまま寝てしまったのかな。
もう起きないと、遅刻しちゃうよ。
寝室のドアをノックしようとしたけれど、2人のプライベートな空間を覗くのに気が引けて、携帯電話を鳴らすことにした。
3コール目でチャンミンさんは、「寝過ごすところだった、ありがとう」ってくぐもった声で、電話に出た。
盛大に髪がはねている自分が、洗面所の鏡に映った。
いつもだったら、チャンミンさんに「髪の毛、はねてるよ」って教えてもらうのに。
ブリーチしてパサついたせいで、いつも以上に髪の毛がくしゃくしゃだ。
鏡の中の自分をじーっと観察する。
プラチナ色の髪のせいか、心なしか顔色が悪いような気がする。
チークをさせばいいのだろうけど、自分に似合うメイクが分からない。
女装した男の人みたいな顔になる。
明日の夜は、ユンさんにご飯をごちそうしてもらうんだった。
どうしよう...。
1着だけあるワンピースを着ていこう。
超ロング丈だから骨っぽい脚は隠れるし、足元は黒革を編んだペタンコサンダルを合わせよう。
髪型もメイクは、今夜KさんとAちゃんに会った時に教えてもらおう。
今日はお休みだから、一人暮らしをする住まいを探しに行こう。
今週末にチャンミンさんに、不動産めぐりと下見に付き合ってもらおうと思ったけれど、頼ってばかりいられない。
チャンミンさんは、リアさんのことで大変だろうから。
洗面所を出たら、チャンミンさんが立ったままコーヒーを飲んでいて、用意した卵料理のお皿は空っぽだった。
「民ちゃん、おはよう」
目は半分しか開いていなくて、後頭部の髪がはねていて、髭が伸びている。
毎朝目にする姿なのに、なんだかチャンミンさんが遠く感じた。
いつもみたいに「泥棒さんみたいです」とか「勃ってますよ」って、からかえない。
席について、コーヒーをちびちびと飲みながら、自分の感情を整理することにした。
その1.
昨夜、リアさんを介抱するチャンミンさんを見て、この2人は恋人同士なんだ、って初めてリアルに実感した。
行為そのものを目にしたわけじゃないけれど、交際している男女の生々しさを目撃した、っていうのかな。
リアさんの扱いを慣れてる感じが、いろんなことを想像してしまって。
私とチャンミンさんは、ものすごく似ていて、他人以上に親近感を抱き合っていると思っている。
けれども、一緒に暮らしている恋人には、負ける。
その2.
その1にも通じること。
チャンミンさんとホテルに泊まった時、私に忠告の意味を込めて、チャンミンさんは私を押し倒すフリをした。
チャンミンさんに耳の下のあたりをキスされて、くすぐったいのとは違う、初めての感覚に驚いた。
ぞわぞわっとしたけれど、嫌な感じじゃないの。
「ってな風に襲われるから」ってチャンミンさんはすぐに身体を起こしてしまったけれど、私はもうちょっとキスしてて欲しいなぁ、って思ってしまった。
チャンミンさんは、リアさんにいつもこんな風にキスするのかな?って想像してしまった。
昨夜、チャンミンさんがリアさんの頭を撫ぜているのを見て、その1とその2の感情が湧いてきたの。
「リアさんは?」
「まだ寝ている。
今日の民ちゃんは?」
「お休みなんです」
「そっか...。
悪いんだけど、リアは寝かせておいてくれないか?」
「はい」
悪くなんか、全然ないのに。
ここは、リアさんとチャンミンさんのおうちであって、私は居候。
洗面所で「シャワーを浴びる時間はないな、仕方がない」とチャンミンさんはぼやいている。
髪の毛がはねていることに気付くといいんだけれど。
不思議なことに、今朝の私はチャンミンさんに近寄れなかった。
そして、チャンミンさんはリアさんと別れられないんじゃないかな、ってちらっと思った。
なんでだろうね。
~チャンミン~
昨夜のリアには参った。
泣いたり、僕を罵ったり、叩いたり、そして泣いたり。
リアに酷い酔わせ方をさせたのは、僕が原因だ。
「私を捨てないで」
「別れたくない」
「チャンミンがいないと生きていけない」とまで言われた。
プライドの高いリアがそんな台詞を口にするなんてと、ショックを受けた僕の心は、正直少しだけぐらりと揺れた。
でも、心を鬼にして首を横に振り続けた。
リアの気持ちには添えないけれど、リアの頭を抱きしめてやることが、今の僕ができる精いっぱいだ。
以前の僕だったら、「別れたくない」と泣いてすがりつくリアの姿に、「愛されている」と勘違いをして、情にほだされて、別れを撤回していたと思う。
今の僕は違う。
リアのどこを好きになったんだろう、とじっくりと思い起こしてみた。
美しい顔とスタイルに惚れた。
何としてでも自分のモノにしたくて、追いかけた。
憧れに近い恋だった。
現実の生活を共にしてみたら、美しい蝶が舞うのを眺めているだけにはいかなくなる。
世話も必要だし、羽を休める休眠所を整えてやらなければならない。
その蝶は、極めて気紛れなタイミングで僕を誘ったり、放置したり、野暮ったい僕を哂ったりした。
リアの隣を歩くには、それなりのレベルでいることが必要で、リアの指示通りに身なりを整えた。
そんな過去の遺産みたいなものを、僕は民ちゃんに貸し与えている。
田舎から出てきた飾りっ気のない民ちゃんを、僕の手で整えてやった。
民ちゃんは土台がいいから、シャツ1枚で一気に垢抜けてくれて、そんな彼女を前に僕は気分がよかった。
僕が民ちゃんにしている行為は、リアが僕に教育していたことと同類じゃないか、と気付いた。
いや、違う。
民ちゃんは、そのままで十分なんだ。
僕はただ、民ちゃんのことを放っとけないんだ。
民ちゃんのありとあらゆる表情を見てみたいから、あれこれ理由をつけて彼女と関わろうとしている。
僕の言うこと成すことに、素直に反応する。
素直過ぎて怖いくらいだ。
民ちゃんを綺麗に磨けば磨くほど、僕の心が満たされていくんだ。
民ちゃんが、それも瓜二つの姿で僕の前に現れたおかげで、僕自身との差異が顕わになった。
民ちゃんと比べると、僕の場合はこういう顔で、性質はこうで、物事にはこう反応する、といった具合に。
昨夜、「大事な人です」の言葉に、心が震えた。
嬉しかった。
「僕にとっても、民ちゃんは大事な人だよ」と言いたかった。
でも、民ちゃんには片想いをしている『彼』がいて、彼女の恋がうまくいかなければいい、と本気で望んでしまった。
言葉と裏腹な心を抱えていて、「大事だよ」なんて言えないよ。
今朝のよそよそしい民ちゃんの態度が気になっていた。
(つづく)
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