【84】NO?

 

 

 

翌朝。

 

民はチャンミンを待っていた。

 

医師から簡単な診察を受け、薬剤師から処方薬の説明を受け、警察官の質問に答えた。

 

朝食として出されたお粥だけでは物足りず、午前10時の時点で空腹だった。

 

点滴も外れ身軽になり、待ちきれなかった民は兄Tから渡された紙幣を握りしめて、売店に行くことにした。

 

「何にしようかな...」

 

病衣のまま院内をうろついていると、「ホントの入院患者みたい」と、基本的に楽観的な民は軽く浮かれていた。

 

まだ少しふらつくのは、丸1日以上寝たきりだったせいで、後頭部の怪我も急に振り向いたりしなければ痛みはそれほどない。

 

「民ちゃん!」

 

「わ!」

 

民は手にしかけたチョコレートバーを、陳列棚に戻す。

 

呑気に買い物をしている民の様子に、片手にボストンバッグを下げたチャンミンは安堵する。

 

「お腹が空いたの?」

 

「えーっと...そうです。

ご飯が足りなくて...」

 

「ははっ。

そうだろうね」

 

「どういう意味ですか?」

 

ムッとした時に必ず見せる民の三白眼に、「いつもの民ちゃんだ」とチャンミンは笑う。

 

「どう?

退院できるって?」

 

「はい。

異常なしです」

 

「その...、事故のこと...ショックだろ」

 

昨夜、チャンミンはTに電話を入れ、事故の顛末を聞いた。

 

さぞかし怖い思いをしただろうに、ケロッとしている民のタフさに感心した。

 

(民ちゃんの性格は...僕とは全然違うんだな)と。

 

「酷い奴もいるんだな...。

盗られたものは残念だけど、

民ちゃんが無事で、本当によかった」

 

チャンミンと民は並んで病室に向かう。

 

民の足取りはしっかりしていたが、たまにふらつくこともある。

 

そんな時、チャンミンがそっと民の背中に手を添えるのだ。

 

病衣ごしに民の背骨や体温が伝わってきて、チャンミンはその細いウエストに、腕を回したくなる衝動を抑えた。

 

耳の後ろに拭き取りきれなかった血の赤がこびりついていて、痛ましく思った。

 

「あの時は、油断してたんです。

人が全然いない、寂しい道でした」

 

(引ったくりの被害者は大抵、女性や老人だと聞くけど、民ちゃんみたいな子が襲われることもあるんだ...。

なんてことは、民ちゃんには言えない)

 

「寂しい道を歩いていたなんて、どうしてなんだ?

うちから1時間以上も離れたところだったんだよ?」

 

「それは...」

 

チャンミンとリアとの緊迫したやり取りを目にして、いたたまれなくなって、あの夜はどこかホテルに宿泊しようとしていたとは、民はチャンミンには言えなかった。

 

加えて、リアがチャンミンの子を宿しているかもしれないことに、酷くショックを受けたことも。

 

二人は昨夜のことなどなかったかのように振舞った。

 

チャンミンは、民に聞かれてしまった話の内容に触れなかった。

 

民も、チャンミンとリアが抱えている問題について、問いたださなかった。

 

それぞれが抱えているモヤモヤを、話題に上げたくなかったのだ。

 

二人とも、昨夜の奇妙な、でも甘いやりとりを引きずりたかった。

 

チャンミンは、昨夜の嘘がきっかけで自身の想いが民にバレたのでは、と恥ずかしかった。

 

民は、記憶喪失のフリをした理由を知られたくなかったし、「彼氏」のフリをしたチャンミンの意図が分からなかった。

 

「えーっと...そう!

着替えを持ってきたよ」

 

「わぁ、ありがとうございます」

 

ボストンバッグのファスナーを開け、民に中身を見せる。

 

「あらら。

パンツも持って来てくれたんですね。

恥ずかしいです」

 

民の着替えを揃えようとクローゼットの引き出しを開けてみて、民の所有する衣服の少なさに切なくなった。

 

(民ちゃんは節約に節約を重ねてお金を貯めて、都会に出てきたんだった。

空っぽに近い引き出しを見て、自分色に染めたいと思ってしまった。

でも...。

他の誰かに想いを寄せている民ちゃんだ。

今のうちに、僕の元にとどめておかなければ...)

 

「シャツとボトムスは僕のものだけど...別にいいよね?」

 

「はい。

ありがとうございます。

じゃあ、着がえますね」

 

民の見据えるような視線に気づいて、

 

「ごめん!

じゃあ...僕は、会計してくるよ。

請求書をちょうだい」

 

「そんな...。

悪いですよ。

事故ですから、保険証が使えないんですよ?」

 

「大丈夫。

お金をおろしてきたから」

 

「じゃあ...お言葉に甘えて...。

後日、絶対にお返しします」

 

 

会計に手間取っているのか、チャンミンがなかなか戻ってこない。

 

民はベッドに腰掛けて、チャンミンの戻りを待っていた。

 

チャンミンが用意したのは、ブルーのストライプシャツとライトグレーのパンツ、白いスニーカーと、夏らしい爽やかなコーディネイトだった。

 

自身の身なりに満足していたら、

 

「民くん?」

 

間仕切りのカーテンの隙間から覗いた顔に、民は驚嘆した。

 

「ユンさん!」

 

(つづく)

 

[maxbutton id=”27″ ]