【86】NO?

 

 

~チャンミン~

 

今日のユンは相変わらず、忌々しいほどスマートな装いだ。

 

「帰ろうか」

 

民ちゃんの手を引いて立ち上がらせる。

 

「でも...」

 

戸惑ったように、僕とユンの間を交互に見る民ちゃん。

 

「昨夜、民くんの『お兄さん』に連絡をもらいましてね。

こうして駆けつけたわけです」

 

「わざわざすみません」

 

僕は軽く会釈する。

 

「よろしければ、私の車で送りましょうか?」

 

「いいんですか?」

 

(民ちゃん!

嬉しそうな顔をするなって)

 

ぱっと顔を輝かせた民ちゃんの手首を、ぎゅっと握った。

 

「結構です。

タクシーを呼んでありますので(嘘だけど)」

 

「今日は予定もありませんし、私の方は構わないのですよ?」

 

ユンは民ちゃんの方をちらっと見ながら言った。

 

「お気遣いありがとうございます。

遠回りをさせてしまいますから、僕たちだけで大丈夫です」

 

「とにかく、民くんが平気そうで安心しました。

それじゃあ、来週。

仕事のことなら心配しなくていい。

しっかり休みなさい」

 

そう言い終えて民ちゃんの顎に触れるユンの手を、思い切りはたきたくなるのも抑える。

 

民ちゃんに触るなよ。

 

セクハラだろう?

 

上司にしては、距離が近すぎるだろう?

 

「そうだ!」

 

立ち去りかけたユンが、思い出したかのように立ち止まって、僕の方を振り向いた。

 

「最終号の作品ですが、先日説明していたイメージのものでいきたいと考えています」

 

「?」

 

「3本の腕のことです。

モデルが必要でしてね。

一度断られましたが、チャンミンさんにもモデルになっていただきたいのです」

 

ユンの言い方だと、他にもモデルがいるみたいだ。

 

あちこちでアンテナを張って、好みの子を探しているんだろう。

 

最初から全く気乗りがしない僕だったから、考えているふりをしていた。

 

ところが、「正式に、依頼します」とユンに頭を下げられるし、民ちゃんも「へぇ...」と目を輝かせて僕を見るしで、頷くしかなくなった。

 

「モデルと言っても、全部脱げとは言いませんから」

 

「えぇっ!」

 

民ちゃんがあげた声に驚いて、民ちゃんの方を窺うと両手で口を覆っている。

 

うっかり口を滑らしてしまった時の仕草だったから、「あれ?」と思った。

 

「ま、脱いでも構わないのでしたら、こちらとしては大歓迎です」

 

「そういうのはお断りします」

 

僕が引き受けたのは、アトリエに出入りする口実が増え、ユンをけん制できると考えたから。

 

ユンに関してはなぜか、なぜだか嫌な予感がしたんだ。

 

民ちゃんを見るユンの目がまるで、恐怖におびえる小鹿を前にしたオオカミのそれのようなんだ。

 

加えて、その小鹿が自らすすんで襲われることを望んでいるような...民ちゃんの表情からそんな願望を感じとったんだ。

 

民ちゃんを傷つけるような奴から守らないと、といつだか強く思ったこと。

 

今がその時なんだと、危なっかしい空気を察した。

 

 

身体がまだ辛いのか、帰りのタクシーの中で民ちゃんは終始無言だった。

 

僕に背を向けた姿勢で、ぼんやりと車窓からの景色を眺めていた。

 

気になってちらちらと様子を窺っていたが、10分もしないうちにまぶたを落としていた。

 

膝の上でくたりと置かれた彼女の手を、僕の膝に引き寄せてゆるく握った。

 

民ちゃんが今、着ているストライプ柄のシャツ。

 

照れくさくて「僕の服」と言って手渡したけど、実は民ちゃんのために内緒で購入していたものだった。

 

民ちゃんのことだから、合わせが女ものになっていることに気付いていないと思う。

 

余程深く眠っているのか、民ちゃんの手はぴくりとも動かない。

 

よかった。

 

民ちゃんが無事で、本当によかった。

 

 

帰宅後、「もう寝ます」と民ちゃんは6畳間に引っ込んでしまった。

 

手持ち無沙汰になった僕は、キッチンに立って夕飯の仕込みをすることにした。

 

民ちゃんがいなくなった夜、買い込んできたまま、ぞんざいに冷凍庫に放り込んだ肉を解凍し、野菜の皮をむき、刻んで、炒めて煮込んだ。

 

心が落ち着いていく。

 

リアの帰りを待ち続けた幾夜も、こうして手を動かすことで荒れそうな心を鎮めてきた。

 

鍋の中身をかきまわしながら、賃貸情報サイトを巡った(気になるものは問い合わせた)。

 

6畳間をそっと覗くと、白い布団の上から民ちゃんの髪がのぞいていて、熟睡している姿に頬がほころんだ。

 

よかった。

 

民ちゃんが僕の家にいる。

 

 

(つづく)

 

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