(3)会社員-情熱の残業-

 

 

いい線までいっていたのに、価格面で折り合いがつかず、ご破算になりそうな商談だった。

 

近頃、仕事がうまくいっていないだけに、小さな失敗が大きな挫折に思えてしまう。

 

「はあぁ...」

 

昼飯を食べる気にもならず、チャンミン製の弁当が入ったバッグが重い。

 

ピクニック弁当以来、サイズダウンを重ねた結果、4日目でやっとで適量の弁当を詰められるようになったチャンミン。

 

お前は俺のおかんか嫁さんか?

 

甲斐甲斐しいチャンミンにウケるし、同時に彼のことが可愛らしくて仕方がない(男相手にこんなことを言ったらどうかと思うが...すまん、チャンミン)。

 

オフィスのデスクで弁当でも食おうかと、午後3時だが早々と帰社することにした。

 

チャンミンにも会えるし...と、腐った気分も多少は晴れた。

 

やっぱり俺は、チャンミンに参ってる。

 

 

エレベーターに乗り込み、「閉」ボタンを押した直後、「待ってください!」の声に慌てて扉を押さえた。

 

「すみませんっ!」

 

息せき切って駆け込んできたのは同課のA子で、俺は心中で顔をしかめた。

 

俺はどうも、彼女が苦手なのだ。

 

「ユンホさん...今日は帰りが早いですねー?」

 

語尾を無意味に伸ばすのがA子の癖で、媚びるように俺を見上げている。

 

「仕上げたい書類仕事が待ってるんだ」

 

ヤル気が削がれて、早々に仕事を切り上げてきたと言えなかったのは、男のプライドが邪魔をしたから。

 

苦手であってもA子は女、見栄を張りたいのだ。

 

「私、ユンホさんとB社に謝りに行ったじゃないですかー」

 

「そうだったね。

あの時は助かったよ」

 

俺がしでかした最近のトラブルというのが、こうだ。

 

仕様変更の伝達なら半年前に済ませてあると、前任者から引き継いだ得意先だった。

 

ところが、先方は「聞いていない」の一点張りで、確かに送付してあるはずの控えがなかった。

 

チャンミンが半日かけて、1年前まで遡って発行済書類のpdfを、サーバー内中検索してくれたが、ないものはなかった。

 

つまり、仕様変更の告知を「していなかった」のだ。

 

前任者のポカとは言え、引き継いだのは俺、念をおしていなかった俺に非がある。

 

頭数は多い方がよいとの判断で、俺と営業部長、それからA子と3人連れだって謝罪に出向いたのだ。

 

頭を下げに下げ、向こう3か月分のリベートを多く支払うことで許してもらったのだ。

 

「あの時、3人でランチ食べたじゃないですかー。

仕事中ですよって私―、言ったのにー、部長ったらビール飲みましたよねー」

 

「しー!」

 

途中の階で乗り込んできた者の耳が気になって、A子の腕をつかんで制した。

 

「キャッ」と大袈裟に悲鳴をあげるA子に、勘弁してくれと嫌になる。

 

「悪い」

 

なんでもかんでも、無神経にデカい声でしゃべるA子にヒヤヒヤしていたんだ。

 

目的階に到着し、密室から解放された俺はどっと疲れが出た。

 

オフィスの空気が、清々しく新鮮に感じてしまうくらい、A子の香りはきつかった。

 

「ユンホさん!」

 

後を追うA子を無視して、早歩きでオフィスへ向かう。

 

PCディスプレイの上から、丸い頭がぴょこんと出ている。

 

チャンミンだ。

 

気配に気付いてチャンミンが事務椅子から腰を浮かせ、ぱっと顔を輝かせた。

 

ところが、俺の背後にA子を認めて、瞬時にその顔を曇らせた。

 

表情豊かになったことも、目に見えた変化のひとつだ。

 

デスクで弁当を広げようかと思ったが、A子を始めとする女性社員の目が気になった。

 

食堂で食べよう...デスクに置いたバッグを再び抱えて、立ち上がった。

 

「ん?」

 

もの言いたげにチャンミンが、俺に視線を送っている。

 

眉を上げたり下げたり、俺のバッグを指さしたり、PCに顎をしゃくったり、口をパクパクさせている。

 

言いたいことがあれば、こっちまで来ればいいのに...チャンミンが来ないのなら、と近づこうとすると、「あっち行け」とばりに手を振る。

 

意味不明なチャンミンは放っておくことにした。

 

昼休憩どきを過ぎた食堂は閑散としていて、テレビの真正面の特等席につく。

 

「おっと...」

 

バッグから弁当を出しかけて、危なかった...イチゴ柄プリントの弁当包みは、かなり恥ずかしい。

 

バッグの中で包みをほどいたものを、テーブルに置く。

 

チャンミン...お前という奴は...。

 

俺のために新調した弁当箱なのだろうか、真新しいそれはイチゴ柄で、古びた食堂テーブルの上ではピカピカと目立っている。

 

なぜイチゴ攻めなのか理解に苦しむ。

 

お手拭きが添えられていて、神経が行き届いている。

 

チャンミンよ、お前はいい嫁さんになれるよ。

 

(『いやん、ユンホさんったらぁ、僕、男だからお嫁さんにはなれません』って、案外喜んだりして...って、おい!)

 

「わっ!」

 

蓋を開けた途端、俺はそれを閉じた。

 

キョロキョロと周りを見渡して、皆思い思いにテレビやスマホに集中しているのを確認して、ホッとした。

 

「ユンホさん」

 

「わっ!」

 

耳元から当人の声が降ってきて、俺は再び飛び上がる羽目になった。

 

けたたましい音をたてて、プラスチック製の湯飲みが床に転がった。

 

俺のために茶を汲んだチャンミンが、背後に立って俺を呼んだだけのこと。

 

チャンミンが手にした湯飲み茶わんに、俺のひじが当っただけのこと。

 

チャンミン弁当に驚いてたところに、ご当人の登場にビックリ仰天してしまったのだ。

 

「びっくりした!

チャンミン、何?」

 

「びっくりしたのは僕の方です!」

 

チャンミンはテーブルの下に転がった茶碗を拾いあげると、ふんと鼻をならした。

 

「チャンミン...今すぐ事務所に戻るのはよした方がいい」

 

「どうしてですか?

僕はここでサボるために来たのではありません。

ユンホさんに伝言があったのと、手洗いに立っただけです」

 

「まあまあ、いいからしばらくここで休んでいけ」

 

「何でですか?」

 

「そのまま帰ったら、セクハラととられかねないぞ?」

 

「セクハラ!?

僕が!?」

 

「だからぁ、座ってろ!」

 

椅子を倒す勢いで立ち上がったチャンミンの手を引いて、座らせる。

 

「お漏らししたんだと勘違いされるぞ?」

 

「あー!!」

 

ぶちまけたお茶が、チャンミンの股間から腿にかけて染みを作っていた。

 

「腹を壊して便所に籠っていたことにすればいい。

俺が食う間、ここにいな。

そのうち乾くだろう」

 

「あの...ユンホさん」

 

「?」

 

「手を...放してください...」

 

「悪い!」

 

チャンミンを座らせようとつかんだ手が、そのままだった。

 

「お昼を食べる間もないくらい、忙しかったんですね。

お疲れ様です」

 

チャンミンはぽりぽりと鼻の頭をかいている(か、可愛い)。

 

「今日はイマイチでね。

飯どころじゃなかったわけ」

 

開けかけた蓋をまた閉めてしまった理由は、新婚さんも真っ青なLOVE弁当だったから。

 

「チャンミンの愛情弁当でも食って、元気をだそうかなぁ...って?」

 

『愛情』という言葉を忍ばせて、さりげなくチャンミンの気持ちを探ってみた。

 

あり?

 

ゴシゴシとスラックスを拭くのに必死なチャンミンは、聞いていなかったらしい。

 

タイミング悪いなぁ、と俺だけが恥ずかしくなって、チャンミン弁当に取り掛かることにした。

 

いり卵をぎっしり敷き詰めた上に、ハート型のそぼろひき肉(ご丁寧に、枝豆で縁取りがしてある)。

 

まったく。

 

新婚さんも真っ青だよ。

 

ウキウキ鼻歌を歌いながら、弁当を詰めるチャンミンを想像すると、ぞくぞくと喜びが湧いてくる。

 

チャンミンの気持ちを未だ確かめていないと、ウメコにはボヤいていたが、チャンミン弁当を見れば、彼の想いが十分伝わってきた。

 

俺たちは、素面で「好き」が言い出せずに、モジモジしている30男。

 

チャンミンにあらためて、「好きだ」と伝えないとな。

 

 

(つづく)

 

 

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