いい線までいっていたのに、価格面で折り合いがつかず、ご破算になりそうな商談だった。
近頃、仕事がうまくいっていないだけに、小さな失敗が大きな挫折に思えてしまう。
「はあぁ...」
昼飯を食べる気にもならず、チャンミン製の弁当が入ったバッグが重い。
ピクニック弁当以来、サイズダウンを重ねた結果、4日目でやっとで適量の弁当を詰められるようになったチャンミン。
お前は俺のおかんか嫁さんか?
甲斐甲斐しいチャンミンにウケるし、同時に彼のことが可愛らしくて仕方がない(男相手にこんなことを言ったらどうかと思うが...すまん、チャンミン)。
オフィスのデスクで弁当でも食おうかと、午後3時だが早々と帰社することにした。
チャンミンにも会えるし...と、腐った気分も多少は晴れた。
やっぱり俺は、チャンミンに参ってる。
・
エレベーターに乗り込み、「閉」ボタンを押した直後、「待ってください!」の声に慌てて扉を押さえた。
「すみませんっ!」
息せき切って駆け込んできたのは同課のA子で、俺は心中で顔をしかめた。
俺はどうも、彼女が苦手なのだ。
「ユンホさん...今日は帰りが早いですねー?」
語尾を無意味に伸ばすのがA子の癖で、媚びるように俺を見上げている。
「仕上げたい書類仕事が待ってるんだ」
ヤル気が削がれて、早々に仕事を切り上げてきたと言えなかったのは、男のプライドが邪魔をしたから。
苦手であってもA子は女、見栄を張りたいのだ。
「私、ユンホさんとB社に謝りに行ったじゃないですかー」
「そうだったね。
あの時は助かったよ」
俺がしでかした最近のトラブルというのが、こうだ。
仕様変更の伝達なら半年前に済ませてあると、前任者から引き継いだ得意先だった。
ところが、先方は「聞いていない」の一点張りで、確かに送付してあるはずの控えがなかった。
チャンミンが半日かけて、1年前まで遡って発行済書類のpdfを、サーバー内中検索してくれたが、ないものはなかった。
つまり、仕様変更の告知を「していなかった」のだ。
前任者のポカとは言え、引き継いだのは俺、念をおしていなかった俺に非がある。
頭数は多い方がよいとの判断で、俺と営業部長、それからA子と3人連れだって謝罪に出向いたのだ。
頭を下げに下げ、向こう3か月分のリベートを多く支払うことで許してもらったのだ。
「あの時、3人でランチ食べたじゃないですかー。
仕事中ですよって私―、言ったのにー、部長ったらビール飲みましたよねー」
「しー!」
途中の階で乗り込んできた者の耳が気になって、A子の腕をつかんで制した。
「キャッ」と大袈裟に悲鳴をあげるA子に、勘弁してくれと嫌になる。
「悪い」
なんでもかんでも、無神経にデカい声でしゃべるA子にヒヤヒヤしていたんだ。
目的階に到着し、密室から解放された俺はどっと疲れが出た。
オフィスの空気が、清々しく新鮮に感じてしまうくらい、A子の香りはきつかった。
「ユンホさん!」
後を追うA子を無視して、早歩きでオフィスへ向かう。
PCディスプレイの上から、丸い頭がぴょこんと出ている。
チャンミンだ。
気配に気付いてチャンミンが事務椅子から腰を浮かせ、ぱっと顔を輝かせた。
ところが、俺の背後にA子を認めて、瞬時にその顔を曇らせた。
表情豊かになったことも、目に見えた変化のひとつだ。
デスクで弁当を広げようかと思ったが、A子を始めとする女性社員の目が気になった。
食堂で食べよう...デスクに置いたバッグを再び抱えて、立ち上がった。
「ん?」
もの言いたげにチャンミンが、俺に視線を送っている。
眉を上げたり下げたり、俺のバッグを指さしたり、PCに顎をしゃくったり、口をパクパクさせている。
言いたいことがあれば、こっちまで来ればいいのに...チャンミンが来ないのなら、と近づこうとすると、「あっち行け」とばりに手を振る。
意味不明なチャンミンは放っておくことにした。
昼休憩どきを過ぎた食堂は閑散としていて、テレビの真正面の特等席につく。
「おっと...」
バッグから弁当を出しかけて、危なかった...イチゴ柄プリントの弁当包みは、かなり恥ずかしい。
バッグの中で包みをほどいたものを、テーブルに置く。
チャンミン...お前という奴は...。
俺のために新調した弁当箱なのだろうか、真新しいそれはイチゴ柄で、古びた食堂テーブルの上ではピカピカと目立っている。
なぜイチゴ攻めなのか理解に苦しむ。
お手拭きが添えられていて、神経が行き届いている。
チャンミンよ、お前はいい嫁さんになれるよ。
(『いやん、ユンホさんったらぁ、僕、男だからお嫁さんにはなれません』って、案外喜んだりして...って、おい!)
「わっ!」
蓋を開けた途端、俺はそれを閉じた。
キョロキョロと周りを見渡して、皆思い思いにテレビやスマホに集中しているのを確認して、ホッとした。
「ユンホさん」
「わっ!」
耳元から当人の声が降ってきて、俺は再び飛び上がる羽目になった。
けたたましい音をたてて、プラスチック製の湯飲みが床に転がった。
俺のために茶を汲んだチャンミンが、背後に立って俺を呼んだだけのこと。
チャンミンが手にした湯飲み茶わんに、俺のひじが当っただけのこと。
チャンミン弁当に驚いてたところに、ご当人の登場にビックリ仰天してしまったのだ。
「びっくりした!
チャンミン、何?」
「びっくりしたのは僕の方です!」
チャンミンはテーブルの下に転がった茶碗を拾いあげると、ふんと鼻をならした。
「チャンミン...今すぐ事務所に戻るのはよした方がいい」
「どうしてですか?
僕はここでサボるために来たのではありません。
ユンホさんに伝言があったのと、手洗いに立っただけです」
「まあまあ、いいからしばらくここで休んでいけ」
「何でですか?」
「そのまま帰ったら、セクハラととられかねないぞ?」
「セクハラ!?
僕が!?」
「だからぁ、座ってろ!」
椅子を倒す勢いで立ち上がったチャンミンの手を引いて、座らせる。
「お漏らししたんだと勘違いされるぞ?」
「あー!!」
ぶちまけたお茶が、チャンミンの股間から腿にかけて染みを作っていた。
「腹を壊して便所に籠っていたことにすればいい。
俺が食う間、ここにいな。
そのうち乾くだろう」
「あの...ユンホさん」
「?」
「手を...放してください...」
「悪い!」
チャンミンを座らせようとつかんだ手が、そのままだった。
「お昼を食べる間もないくらい、忙しかったんですね。
お疲れ様です」
チャンミンはぽりぽりと鼻の頭をかいている(か、可愛い)。
「今日はイマイチでね。
飯どころじゃなかったわけ」
開けかけた蓋をまた閉めてしまった理由は、新婚さんも真っ青なLOVE弁当だったから。
「チャンミンの愛情弁当でも食って、元気をだそうかなぁ...って?」
『愛情』という言葉を忍ばせて、さりげなくチャンミンの気持ちを探ってみた。
あり?
ゴシゴシとスラックスを拭くのに必死なチャンミンは、聞いていなかったらしい。
タイミング悪いなぁ、と俺だけが恥ずかしくなって、チャンミン弁当に取り掛かることにした。
いり卵をぎっしり敷き詰めた上に、ハート型のそぼろひき肉(ご丁寧に、枝豆で縁取りがしてある)。
まったく。
新婚さんも真っ青だよ。
ウキウキ鼻歌を歌いながら、弁当を詰めるチャンミンを想像すると、ぞくぞくと喜びが湧いてくる。
チャンミンの気持ちを未だ確かめていないと、ウメコにはボヤいていたが、チャンミン弁当を見れば、彼の想いが十分伝わってきた。
俺たちは、素面で「好き」が言い出せずに、モジモジしている30男。
チャンミンにあらためて、「好きだ」と伝えないとな。
(つづく)
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