【BL短編】シングルベッド

 

 

「え...?」

 

手の平に乗せられたものに、俺が絶句しているとモモはひっそりと笑った。

 

「あなたが預かっていてください。

ボクが逃げられないように」

 

「そんなこと思うわけないだろう?」

 

「預かっていて欲しいのです。

あなたの側を離れられないように」

 

モモのパスポートを手に、俺は悲しくなってしまった。

 

 

 

 

モモは背後に立たれることを嫌う。

 

こんなことがあった。

 

キッチンで食器を洗うモモを驚かせようと、忍び足で近づいた時のことだ。

 

肩を叩く前に振り向いたモモに、殴られそうになった。

 

後ろに立つのが俺だと知って、振り上げた手を寸でのところで止めたのだ。

 

「...すみません」

 

長い前髪がはらりとモモの片目を覆って、彼の表情は隠されてしまった。

 

平穏に生きてきた俺には到底、想像できないような過去が、モモにはある。

 

俺は詮索しない。

 

話したくなった時に話すだろう。

 

「...そっか、辛かったな」と、ぽつりつぶやくのがせいぜいだろうけど。

 

 

 

 

伸びきった髪を見かねて、近所の床屋に連れていった。

 

隠されていた両耳があらわになって、ぴんと立ったその耳があまりに健やかそうで、暗い眼差しとのギャップに俺の胸は痛くなる。

 

就寝前の洗面所で歯を磨く俺と、入浴するためシャツを脱ぐモモがいる。

 

浅黒いその肌は絹のように滑らかだった。

 

細身の身体は、鞭のようにしなやかだった。

 

左肩の付け根に、ひきつれた傷跡があった。

 

何かで穿たれたような、これまで見たことのない傷痕。

 

モモは俺の視線に気づいた。

 

「あのー、これは...」

 

モモの言語力は日常会話がギリギリだ。

 

「あのー、えっと...」

 

言葉が見つからないのか、モモは人差し指と親指だけを立てたジェスチャーをする。

 

「それって...?」

 

こくんと頷く。

 

「あのー...」

 

「話さなくていいから...」

 

俺はそう言って、モモの髪をくしゃりと撫ぜた。

 

 

 

 

コンビニの角を曲がって1分、坂を上った先に俺たちが暮らすアパートがある。

 

モモの好物の入った買い物袋を下げて、帰路を急ぐ。

 

登り坂の間、俺の胸はドクンドクンと打つ。

 

モモがいなくなっていたらどうしよう。

 

リュックひとつで俺の家に転がり込んだ日のように、リュックひとつ背負って出ていってしまっていたらどうしよう。

 

建物2階の一番端の部屋、灯る明かりに俺は安堵の吐息をつく。

 

よかった。

 

モモはいなくなっていない。

 

「ボクのパスポートを預かっていてください」

 

モモのあの台詞は、俺の不安を読みとったからなんだ。

 

警戒心の高いモモが、なぜ俺に懐いてくれたのかは分からない。

 

いつかモモに尋ねてみようと思っている。

 

 

 

 

俺たちには肉体的な関係は未だ、ない。

 

モモの全身に指を滑らしたい欲求を抑えていた。

 

手負いの獣のようなモモに、無闇に手を出したらいけないと思っていた。

 

シングルベッドで俺たちは、折り重なるようにして横たわっていた。

 

「ベッドを買い替えないとな」

 

そうつぶやいたら、モモは半身を起こして俺を見下ろした。

 

薄闇の中でモモの眼が光っていた。

 

まるで野生の動物の眼のように鋭い。

 

「狭い...ですよね。

床で、寝ます」

 

スプリングをきしませ、モモはベッドを抜け出た。

 

「床で、いいです」

 

「駄目だ」

 

モモの二の腕を掴んだ。

 

「慣れてます。

ここは...やわらかくて...天国みたいです」

 

「慣れてる」なんて言うなよ。

 

ますますモモが、捨て猫のように見えてくるじゃないか。

 

モモは常に、何かを恐れている。

 

普通に暮らしていれば、身の安全が脅かされることなど滅多にないこの世の中。

 

恐ろしい過去から逃げているのか?

 

実在する危険から身を潜めているのか?

 

モモの腕を引き、ベッドに横たわらせた。

 

そして、背中から抱きしめた。

 

俺の腕の下で、モモの筋肉が引き締まった。

 

そのすぐ後にモモの肌が緩んで、俺はホッとする。

 

首筋に鼻を埋めると、モモの香ばしい肌の香りがする。

 

肩の付け根の傷跡を指でなぞった。

 

すると俺の手が引き寄せられて、指先に温かくて柔らかいものが触れた。

 

指先へのキスを受けた俺は、モモの耳たぶにキスをした。

 

くすくす笑うモモの肩が小刻みに震えている。

 

いつかモモの眼から、哀しみの靄が消えることを俺は祈っている。

 

せめて俺といる時だけでも、心からの笑顔を見せられる平穏が訪れることを、俺は願っている。

 

 

 

(おしまい)

 

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