【BL短編】ベビーカー

 

 

「...あ」と、声に出していた。

 

立ち止まったチャンミンの視線は、その1点に釘付けになっていた。

 

それはひとりの男の後ろ姿だった。

 

頭の形といい、うなじから肩までのラインといい...色濃く残る記憶のままだった。

 

彼は両膝に半身を預け、前のめりになり、熱心に前方の光景に見入っているようだった。

 

通りかかったここは児童公園だった。

 

小さな子供たちが、ブランコやシーソー、滑り台や砂場で遊んでいた。

 

彼らを見守る複数人の男女は、母親や父親、それとも保育士だろう。

 

そのうちの1人が乳児を抱き、2人がそれぞれ乳母車を前にしていた。

 

チャンミンは勇気を出して声をかけようか、立ち去ろうか葛藤した。

 

結局、チャンミンはベンチの男に歩み寄っていた。

 

迷うことで、勇気をかき集める時間を稼いでいただけだった。

 

「やあ、久しぶり。

覚えてますか?

元気そうですね」

 

第一声は何にしようか、チャンミンは頭の中でシミュレーションをしていた。

 

男は近づくチャンミンにまだ気付かない。

 

男の口元が微笑を浮かべていることは、後ろ姿からでも伝わってきた。

 

(ユンホさんの笑顔は沢山...沢山見てきたんだから。

僕に向けられてきた笑顔。

華やかで眩しすぎる笑顔。

随分前に、失ってしまった笑顔だ)

 

「ユ...」

 

呼びかけた名前は、途中で飲み込まざるを得なかった。

 

男が前方に向けて大声を出したからだ。

 

遊具で遊ぶ小さな子供たちの1人に、もしくは大人たちの1人に手を振っていた。

 

「そういうことか...」

 

チャンミンはつぶやいた。

 

男と別れてから7年が経過していた。

 

そういう状況になっていても当然だ。

 

チャンミンはここから立ち去ろうときびすを返した。

 

ところが、考え直す。

 

(僕には立ち去る理由はない。

僕は何も期待していないんだ。

少しだけ言葉を交わしたかっただけだ。

そうだ、期待したらダメなんだ)

 

くるりと向きを戻した時、後ろを振り向いた男と真っ直ぐ、視線がぶつかった。

 

「...あ」

 

チャンミンを前に、男は真顔になった。

 

そこに立つ長身の男と、過去に実を結ばなかった恋人の記憶と。

 

男の頭の中で現在と過去が繋がった瞬間、彼は破顔した。

 

「チャンミン!」

 

それは演技も誇張も何もない、からりと晴れた笑顔だった。

 

チャンミンの眼の奥が、重く熱くなった。

 

「...久しぶり...です」

 

とたんに恥ずかしくなったチャンミンは、一度うつむいて一息整えないといけなかった。

 

「時間はあるの?

ここに座りな」

 

男は傍らの荷物を脇にどけると、空いた座面を叩いた。

 

記憶にあるよりも全身がひと回り逞しくなっており、目尻にシワが加わっていた。

 

髪を染め、流行の服を着て、鋭く尖った眼差しが、柔和で落ち着いたものに変わっていた。

 

肘までたくし上げたトレーナーはチョコレートか何かで汚れ、淡色のデニムパンツの太ももの部分は水で濡れていた。

 

チャンミンは男の泥だらけのスニーカーと、自身の革靴を見比べた。

 

(何を話そうかな)

 

乾いた地面に水遊びの名残りの水たまりができており、ベンチの足元にカラフルな何かが落ちていた。

 

(何だろう?)

 

拾い上げるとそれは小さなカーディガンだった。

 

「ありがと」

 

男はチャンミンからそれを受け取ると、手早く畳んで傍らのバッグに納めた。

 

男の節だった大きな手に、その衣服はあまりに小さく可愛らしかった。

 

(かつてその指に、どれだけ愛撫されただろう...)

 

チャンミンは、みだらな記憶を呼び起こした自分を恥ずかしく思った。

 

水筒、菓子の袋、タオル、ウェットティッシュなど、何でも出てきそうな大きなトートバッグだった。

 

男はころころと遊び転がる子供たちを、目を細めて見つめている。

 

人生が充実している証拠なのだろう。

 

7年ぶりに会ったのに、隣にいてほっとくつろげる空気をまとっていた。

 

(よかった。

幸せそうで、本当によかった)

 

以前のチャンミンだったら、比較してみては卑屈になっていた。

 

7年の年を重ね、自信と余裕を得たことで、隣の男の良さをあらためて、しみじみと思い出すことができた。

 

「チャンミンは、元気だった?」

 

「はい。

とても...元気でした。

今も元気です」

 

チャンミンは砂場で遊ぶ2人の子供を眺めたまま答えた。

 

滑り台の側に立つ、ベビーカーの2人の女性の方は見られずにいた。

 

男に向けた横顔がじんじんと熱かった。

 

(今、振り向いたらダメだ。

今、ユンホさんと目を合わせたら、止められなくなる)

 

心の奥底に、ぎゅっと圧縮していたものが、水を得て膨らんできそうだった。

 

(どちらかがどちらを見損なって別れたんじゃない。

物理的、時間的距離が、僕らを別れさせたのだ)

 

「ユンホさんは...元気でしたか?」

 

「ああ、元気だったよ」

 

「よかったです」

 

「チャンミン...」

 

男がチャンミンの名前を、あらたまった風に呼んだ時、チャンミンは勢いよく立ち上がった。

 

チャンミンにとって都合が悪いことを、男の方から説明されたくなかったからだ。

 

児童公園、ベビーカー、小さな子供服、チョコレートの染み。

 

「そろそろ、行かないと!」

 

会話を打ち切ったチャンミンに、男ははっとして背筋を伸ばした。

 

「仕事中だったんだね。

引き留めてゴメン」

 

スーツ姿のチャンミンの全身を眺めると、男は微笑んだ。

 

「相変わらずいい男だね」

 

「ユンホさんの方こそ、相変わらずいい男です」

 

そう言うと、男は目を伏せて照れ笑いした。

 

チャンミンは迷った。

 

(もしかしたら、会えるのは最後かもしれない)

 

チャンミンはこの地にたまたま出張で訪れていただけで、来月には勤め先に辞表を出すつもりでいた。

 

「ホントにもう行っちゃうの?」

 

「えっと...ユンホさんの家族は...?」

 

チャンミンと男の質問は同時で、男は身振りでチャンミンに先を譲った。

 

「ユンホさんの家族...」

 

チャンミンは賑やかな辺りを視線で示した。

 

「僕はまだ独り身で...ははは。

仕事が忙しくて...。

でも、ユンホさんは幸せそうで、僕は嬉しいです」

 

チャンミンは視線を、男の傍らのバッグに移し、最後に前方に戻した。

 

男の視線もチャンミンに倣って動き、チャンミンが何を指しているのか合点がいったようだった。

 

「ああ...そういうことね...」

 

チャンミンの手首は、男の手に捉えられた。

 

「ユンホさ...!?」

 

「ねえ、チャンミン。

さっきからずっと、俺の方を見てくれない」

 

チャンミンはゆっくり振り返った。

 

「...え?

そうでしたか?」

 

「そうだよ~。

俺のこと...怖い?」

 

「怖くないですけど...」

 

(まともに見つめてしまったら、再燃してしまいそうなんだ。

ユンホさんはどうってことなくても、僕は...ダメなんだ)

 

遊具の方から子供たちが男の名前を呼んでいた。

 

その様子に、男は血相を変えて立ち上がり、トートバッグの中をかき回した。

 

うずくまったひとりが大きな声で泣いていて、その場にいた若い男性がその子を抱きあげていた。

 

「チャンミン、待ってて。

そこを動くなよ。

帰ったら、怒るぞ」

 

男はあっけにとられて立ち尽くすチャンミンに念を押すと、ポーチを持って泣いた子供の方へと駆けていった。

 

「...ユンホ...先生?」

 

ベンチまで戻ってきた男は、トートバッグを肩にかけた。

 

「悪い。

俺の方こそ行かなくちゃならなくなった。

怪我した子がいて...。

もっと話していたかったんだけど...」

 

「...そんな...」

 

帰りの列車まで2時間あった。

 

男とチャンミンはしばし、見つめ合った。

 

男は後ろポケットを探っていたが、「そうだった...」と舌打ちした。

 

チャンミンは革バッグから商談ノートを取り出した。

 

6人の子供と、若い男女が男を待っているようだった。

 

ナンバーを書きつけたページを破り、男に手渡した。

 

「これっ、これです」

 

同時にチャンミンも、男から何かを押しつけられた。

 

「ぷっ...」

 

手の甲に貼られたものに、チャンミンは吹き出した。

 

男はチャンミンから手渡された紙を丁寧に四つ折りにし、デニムパンツの後ろポケットに入れた。

 

「連絡するよ」

 

「ユンホせんせ~い」と呼ぶ声に、男は「今、行くよ~」と答えた。

 

「ユンホさん!

電話しますから!

絶対に!」

 

立ち去りかけた男は、足を止めてチャンミンを振り返った。

 

「絶対ですよ!

今日はずっと待ってますから!」

 

男は親指を立てて見せ、一行に合流していった。

 

彼らを見送りながら、チャンミンは手の甲を撫ぜた。

 

ウサギのシールには油性ペンでナンバーが書かれていた。

 

指定券は無駄になりそうだった。

 

賑やかな一行が帰った後の児童公園には、ベビーカーをゆする女性が2組残った。

 

 

(おしまい)

 

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