兄が帰ってきた。
腫れぼったい瞼をしているからどうせ、ユノさんと喧嘩でもしたのだろう。
学校を卒業してすぐ、兄は「ユノと一緒に暮らすから」と言って家を出た。
正確に言うと、ひと足先に実家を出ていたユノさんの部屋へ、兄は転がり込んだのだ。
兄は思い詰めたら猪突猛進、想い人のそばに居たい一心の人なのだ。
兄の部屋はとっくに物置部屋と化してしまった為、仕方なく私の部屋に布団を敷かせてやった。
「××...」
「んー?」
照明を消して眠りにつく前、兄がぽつりとつぶやいた。
「...恋って辛いね」
「...そうだね」
ちょうど不倫に近い恋を終わらせたばかりだったから、同意する私の言葉は切実だ。
「××も辛いんだ?」
「辛いよ...」
兄は、「恋って辛いねぇ」と繰り返した。
「兄ちゃん。
電話鳴ってるよ?
いいの?」
兄の枕元に置いたスマホが振動している。
「いいんだ。
無視していればいいんだ」
それならバイブレーションも切っておけよ、と思ったけど、黙っておいた。
「兄ちゃんは...ユノさんのこと、好き?」
「...好きだよ」
「どれくらい?」
「...運命の人だと信じている」
あらら。
「それなら、電話を放っておいていいの?」
スマホは振動し続けている。
「...そのうち切れるよ」
切れて欲しくなんかないくせに。
「意地張っていないで、出たら?」
「意地なんか...張ってない!」
子供みたいにムキになってる兄を見て、ユノさんも大変だなぁ、と同情した。
・
兄には内緒にしていたけれど、昼間、ユノさんが我が家に来ていたのだ。
「××ちゃん、チャンミン来てるよね?」
持参したケーキの箱を私に手渡しながら、そう尋ねた(ここのケーキは母のお気に入りなのだ。さすがだ)
玄関ドアの向こうに立つユノさんは、相変わらずのいい男っぷりだった。
実家に帰って来たものの手持ち無沙汰な兄は、出かけていて留守だった(恐らく、フィギュア作りの道具でも見に行ったのだ)
「来てますよ。
ユノさん、兄を連れて帰って下さい。
腹ペコの犬みたいにウロウロしてて、家族みんな落ち着かないんです」
「迷惑かけてゴメン。
無理やり引っ張り出したら、大騒動になるからなぁ...。
あいつのこと...分かるだろ?」
あらら。
『あいつ』の言い方に、愛がこもっていた。
「...さすがユノさん、よくご存じで。
兄と...何かあったんですか?」
人の恋愛に首を突っ込むようなことはしたくなかったけど、ユノさんの元を飛び出してくるなんて初めてで、よっぽど酷い喧嘩をしたのでは?と気になったのだ。
苦笑したユノさんは、親指でドアの外を指し、私は頷いてサンダルをつっかけて表へ出た。
昼下がりの住宅街を、兄の想い人と並んで歩いた。
「...兄のどこがいいんですか?」
変わり者の兄が、ユノさんを惹きつけているワケってなんだろう?
兄がユノさんに夢中になっているワケは分かっていたけど、ユノさんの方はどうなんだろう?
「あいつと初めて会った時...稲妻が落ちたんだ。
...運命だったんだろうね」
あらら。
無言になってしまった私に、ユノさんはくすっと笑った。
「転勤が決まったんだ」
「え!
どこへ?」
転勤先の地名を聞いて、「遠いですね」とつぶやくしかない。
「兄は?」
「あいつにも仕事があるからね。
好きな業界に入れて、昇進したばかりで...活き活きとしてるよ。
遠距離になってしまうけど、長期休暇の時に会えるんだからって、説得したんだけど...」
「兄がどんな人がご存知でしょう?」
「ああ」
「言うこときかないと思いますよ」
「その通り」
「ユノさん、兄をよろしくお願いします」
頭を下げたら、ユノさんは「できた妹をもって、チャンミンは幸せな兄貴だな」と言って笑った。
兄よ。
あなたは幸せ者だ。
こんなに愛されて。
運命の人だって、ユノさん言ってるよ。
ユノさんの元に早く帰りなさい。
・
「うん...うん...ゆの...ごめんね」
パジャマ姿の兄は、鼻をぐずぐずさせている。
ユノさんからの着信を無視していられたのも、わずか1分くらい。
(ユノさんからの電話をずっと待っていたんだから、それも当然か)
通話を切った兄は、突然「帰る」と宣言して、着がえだした。
「今から!?
もう遅いよ?
終電も行った後だよ?」
そう止めたけど、こうと決めた兄は誰も止められない。
ユノさんと仲直りをしたのだ。
一刻も早く会いたくて仕方がないのだ、その気持ちはよく分かる。
「歩いて帰る」と言い張る兄をどうしようもできなくて、仕方なくユノさんに「迎えに来てください」と連絡を入れた。
(ユノさんの電話番号を知っている妹に、本気でヤキモチを妬く兄。どうかしてる)
ユノさんは洗いっぱなしの髪にスウェットの上下にコートを引っかけただけの恰好でやって来た。
なんだ、ユノさんも兄に会いたくて仕方がなかったのね。
「じゃあね」とふにゃけた顔で、寝ぼけまなこの家族に手を振って、幸せ者の兄はユノさんに伴われて帰っていった。
そして一か月後、ユノさんは転勤先へと引っ越してゆき、兄もユノさんを追ったのだ。
鏡に映る自分の姿は、自分じゃないみたいだ。
長いスカートの裾から、足を伸ばして真っ白なパンプスの先を出してみる。
ホテルの控室、ふかふかのカーペット、父はタバコを吸いに外へ出て行き、着物姿の母は挨拶に顔を出す親戚たちの応対をしている。
ノックの音の後、名前を呼ばれて振り向くと、スーツ姿の兄とユノさんがいた。
あらら。
二人とも淡い色味のスーツで、このまま並んでバージンロードを歩いてもおかしくないくらい、お似合いだった。
「これ、僕とユノからの結婚祝い」と持ちかさばるものを渡された。
「...ちょっと!
彼はこんなにブサイクじゃないわよ!」
兄から贈られたのは、私と夫となる人を模したフィギュアだった。
「××...綺麗...」
兄は鼻をすんすんさせていて、「お前が泣いてどうするんだよ」とユノさんに背中を突かれている。
ユノさんといると、兄は子供っぽく甘えん坊になってしまうようだ。
こんな風だけど、子供の頃は妹思いの優しく頼もしい兄だったのだ。
ユノさんが10年近く兄といるのは、端正なルックスだけじゃなく、兄の情の深さに惹かれ続けているからだと思う。
真顔のユノさんが、頷いて私に合図を送ってきた。
私は兄たちにお茶を勧めにきた母に目配せした。
母ははっとして、喫煙から戻ってきたばかりの父の腕を引っ張って、部屋を出ていった。
「私もちょっと...」と立ち上がった私を、ユノさんは止めた。
「××ちゃんはここにいなきゃ。
居て欲しいんだ。
ウエディングドレスでウロウロしてたら駄目だよ」
「...でも」
きょとんとしている兄とドアを交互に見ながら、私は激しく迷ったけれど、ユノさんの言う通りだなと、すとんと椅子に腰を戻した。
天井のスピーカーからピアノ曲がごく控え目な音量で流れている。
「ユノ...××も...どうしたの?」
無言の私と、神妙な面持ちになったユノさんを、兄は交互に見る。
仕方がない、彼らの証人となろうではないか。
突如ひざまずいたユノさんに、兄はあっけにとられている。
「チャンミン」
ユノさんは兄の手をとって、その甲に唇を押し当てた。
「俺と結婚してください」
「......」
フリーズした兄。
ぽーっと立ち尽くす兄。
私は固唾を飲んで、兄の様子を見守った。
ユノさんも、天使の眼差しで兄を見守っている。
兄の頭は、ユノさんの言葉の意味と、それを受け取った自分の感情の処理でフル回転なんだと思う。
ひざまずいたユノさんを見つめる兄の焦点が揺らいできた。
そして、ユノさんを虜にした真ん丸の目からぽろぽろと、透明な雫がこぼれ落ちる。
「...っく...っく...ユノの馬鹿ぁ」
(馬鹿!?)
「...待ちくたびれましたよ」
「待たせてゴメン」
「7年待ちましたよ」
「俺と一緒になって欲しい。
チャンミンの返事が聞きたい、今すぐ」
「『はい』に決まってるでしょう!
はい!
はい!
はい!!」
私はユノさんに、ドレッサー前に置かれた物を視線で指し示した。
私のブーケと同じお花で編んだ花冠。
ユノさんから計画の協力を頼まれた時、これを思いついて用意しておいたのだ。
兄は100%どころか120%、頷くって分かっていたから。
「未来の花嫁みたいだな」
花冠に添えたユノさんの指先から、愛情が溢れ出る。
「...っく...うっ...花嫁って...何ですか、それ?」
悔しいけれど、花冠をかぶった兄は、花嫁の私より綺麗だった。
・
ユノさんが、家出した兄を迎えにきた日のことを思い出していた。
昼さがりの住宅街を、ユノさんと肩を並べて歩いた数年前のことだ。
「セーラー服を着た兄...どうでしたか?」
ずっと気になっていたことを、ユノさんに尋ねてみたのだ。
ずっと知りたくて、でも怖くて質問できなかった謎だ。
兄に貸したセーラー服。
兄はユノさんの前でセーラー服姿を披露したんだって、確信していたから。
兄ならあり得る。
兄はいつだって、兄らしく生きる人だから。
突然の私の質問に、ユノさんはぽかんとしていたけれど、「あーはっはっは!」と大声で笑いだした。
こんな眩しい笑顔を見せられたら...兄だったらイチコロだな、と思った。
「可愛かったよ。
すげぇ可愛かった」
あらら。
「××ちゃん。
セーラー服を貸してくれてありがとう。
あれが決定的だった」
セーラー服の何が「決定的」だったのか、私は首を傾げるしかないけど、二人だけの秘密なんだよね。
あの時、いつか二人にあのセーラー服を贈ろうと、心に決めたのだった。
妹からの洒落っ気たっぷりな贈り物。
セーラー服をどう使うのかは、彼らにお任せしましょう。
(おしまい)
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