「......」
(やっぱ、生『好きです』は、凄い...!)
チャンミンはこれまでに、ユノの気持ちを両手で抱えきれないほど受け取っていた。
その安心材料があったから、チャンミンはひと文字ひと文字はっきりと大切に、発音できた。
ユノは眉間をつたってきた汗を、手の甲で拭った。
汗はとめどなく出てくるのに、ユノの口の中の水分は奪われてぱさぱさになっていた。
突然、チャンミンはすくっと立ち上がると、「待っててください」と言い置いて部屋を出て行ってしまった。
ユノはあっけにとられて、パタリと閉まったドアを見つめていた。
(...せんせって、オフの時もいつも通りのノリなんだよなぁ。
挙動が変というか、変なのがデフォルトっていうか...)
この部屋は、安ビジネスホテルの客室のような造りになっている。
シングルベッドにTVを置いたデスク、キャスター付きチェアが、狭い空間に無駄なく、余裕なく設置されている。
(狭いベッド...このベッドにせんせと寝ることになるのか...じゅるっ)
チャンミンと恋人同士になるということは、いずれ『そういう関係』になる。
しかし、ユノにとって、『そういうこと』は刺激的過ぎて、興味半分の域だ。
そして今すぐはタイミング的に早過ぎるし、何より今はクタクタに疲れ過ぎている。
(今夜はちょっと...余裕ないや、俺)
勢いよくドアが開き、スポーツドリンクのペットボトルを3本抱えたチャンミンが戻ってきた。
「飲んで下さい。
喉、乾いてるでしょう。
気が利かなくてすみません」
「助かります!」
(マヂで生き返る~)
ユノはごくりごくりと水分補給しながら、チャンミンを横目で観察していた。
チャンミンはそわそわ、キョロキョロしている。
(せんせ...やっぱり緊張してる。
可愛いなぁ。
俺より12歳も年上なんだぜ?
マジで可愛い)
「そうだ!
脚は?
パンパンでしょう?
マッサージしようか?
湿布もいりますね。
救急箱がどこかにあったと思います」
チャンミンはお世話好きな男だった。
好きな男にはとことん尽くす男だった。
(相手の男は、チャンミンの好意を嬉しがっていたのがそのうち鬱陶しがるようになり、ついにチャンミンの元を離れていってしまうパターンが多かった)
『指導員と教習生』というストッパーが外れた今、世話好きの片鱗が徐々に顔を出し始めたらしい。
「せんせ!」
ユノは、立ち上がろうとしたチャンミンの腕を強く引っ張った。
「落ち着かないから、座っててください!」
「すみません...」
しょげたチャンミンに、ユノは「せんせのそういうとこ、俺好きです」と慰めた。
惜しげなく『好き』を口にするユノに、チャンミンはますます落ち着かなくなってしまった。
俯いた視界に入るのは、自身の愛用ハーフパンツとゴツゴツした膝の皿、すね毛の生えた細すぎるふくらはぎ。
(当たり前だけど、僕の脚は男の脚だ。
ユノはノンケだ。
いいのかなぁ。
勿体なくて、素直に受け取っていいのかどうか...。
駄目!
ダメダメ!
そんな考え方じゃダメだ!)
ユノは、ゆるゆる首を振っているチャンミンを眺めていた。
(こういう卑屈な気持ちが、昨夜のようにユノを傷つけてしまうんだ)
チャンミンが顔を上げると、こちらを心配げに見つめるユノとバチっと目があった。
「ごめんっ!
上の空だったね、ははは」
「せんせ、謝ってばかり。
俺は全然、気にしてませんよ」
ユノはリュックサックを引き寄せて、中途になっていた中身披露を再開することにした。
「栄養ドリンク買ってきました。
せんせにパワーを付けてもらいたくて」
リュックサックから取り出されたドリンク剤に、チャンミンは目を剥いた。
「ユノさん...これ、精力剤ですよ」
「嘘!?」
「裏を読まなくたってネーミングが...『夜獣マクシム』って...」
チャンミンは手にしていたドリンク剤をユノに渡した。
「どれどれ...」
ユノはドリンク剤の裏面シールの効能の欄を読み上げた。
「あ~、ホントっすね。
活力増強、滋養強壮。
巡りをスムーズに...巡りってアソコの巡りっすよね。
特許成分ボキノール...有効成分ソソリダチックス...最大量配合。
充実した夜をサポート...威厳を持ちたい男性におススメ。
...まんまですね」
ユノはキャップを開けると、それをチャンミンに無理やり持たせた。
「細かいこと気にしないで、ぐびっと飲んで下さい」
「そういうわけにはいきませんよ!
興奮して眠れなくなったりして...」
「それはあるかもですね...あはははは。
でも、せんせ、やつれすぎです。
ガツンとエナジーチャージしないと、本番までもちませんよ」
ユノの言うことももっともだと、チャンミンは恐る恐るそれに口を付けた。
「苦いけど、甘くて、味はまあまあだ」と味わっていると、
「俺、せんせを抱きに来たんです」
と、ユノの発言に心臓が止まりそうになった。
飲み干してしまっていなければ、吹いていた。
「えええっ!?」
「抱くってハグレベルじゃなくて、セックスのことですよ」
ユノはしれっとしている。
「な、な、な、何言ってるんですか!!」
「試験前だからこそです。
出すもの出して、スカッとすれば、明後日はうまくいきますよ」
「ユノさん!」
「だってせんせ、言ったじゃないですか。
『僕を抱けますか?』って。
それを証明してさしあげます」
「......っ」
フリーズしてしまったチャンミンと真顔のユノは見つめ合っていた。
「それもそうだな」と、チャンミンが思いかけていたところ...。
「ぷっ。
ジョークですよ。
第一、何も用意してきてませんから」
と、ユノは肩をすくめてみせた。
「......」
みるみるうちに、チャンミンの顔面の血流の巡りがよくなっていった。
さらに、その後のユノの台詞で、何も言えなくなってしまった。
「俺...せんせを大事にしたいから、ちゃんとしたいんです。
したくて仕方ないですけど...というか、あそこを使うのは未経験なんで。
今夜はせんせに会いたい一心だったんで、抱く余裕までないっす」
(ユノ...感動することばかり言わないで)
チャンミンの涙腺が再び、刺激された。
「せんせ、まさか持ってきてませんよね?」
「持ってきてるわけないでしょう!」
ユノはチャンミンの雷に、「ひー!」とふざけ気味に両耳を塞いだ。
「僕をからかって!」と、ふざけて振り上げたチャンミンのこぶしは、ユノに向うことは決して無い...今もこれからも。
ケラケラと楽しそうなユノだったが、細面の顔の顎がさらに尖っていた。
目も充血しているし、隈もできている。
チャンミンは声のトーン落とし、「疲れましたね」ユノを労わった。
「せんせから『好き』と言われて、疲れなんて吹き飛びましたよ」
ユノはそう答えたが、今すぐベッドに倒れ込んでしまうギリギリまで、疲労困憊のはずだ。
「もう休みましょう」
チャンミンはユノの胸を押して、彼を仰向けに横たわらせた。
「せんせ...?」
チャンミンの行為が意外過ぎて、ユノは目をぱちくりさせていた。
室内はデスク上のスタンドライトのみで、ムード抜群。
「ユノさんはとても疲れています。
早く寝てください」
「でも...ベッドはひとつしか...?」
「そうですね。
ひとつしかないですね」
「俺をベッドに寝かせて、せんせはソファで寝る...とか?
と言っても、この部屋にソファは無いし...まさか、床で寝る...とか?」
「まさか!
僕も一緒に寝ますよ。
ここに」
チャンミンは、ポンポンとマットレスを叩いた。
「いや...それはちょっと...マズいのではないのでしょうか...?」
先ほどの余裕ある様子とはうって変わって、ユノはうろたえ始めた。
(ユノが可愛い)
「狭いでしょう?」
ユノもチャンミンも揃って細身だからと言っても、シングルベッドに男2人は相当窮屈だ。
2人の間は5センチも隙間は作れず、身じろぎするだけで、全身触れ合ってしまう。
ユノがチャンミンに手出しする心配は無用だった。
ここではユノがヒツジで、チャンミンがオオカミ。
ユノは手と手が触れてときめくレベルのよちよち赤ちゃん。
チャンミンの身体と密着することで緊張を伴うドキドキはあっても、欲情が沸き上がるところまでいかない。
反面、チャンミンは男に欲情する男だ。
ベッドは片面を壁に付けて設置されている。
2人は背中合わせに横たわっていた。
「俺に手を出したいっすか?」
「出しませんよ」
「出してもいいですよ」
「今夜はやめておきましょう。
お互い疲れすぎています」
「...疲れた~」
「お疲れ様」
「緊張しますね。
せんせは?」
「緊張しますよ」
「ですよね」
(凄いなぁ、男とシングルベッドに寝てるよ、俺。
これがまるちゃんだったら、『離れろ、キモイな』とか言って、ベッドから蹴り落していた。
でも、せんせが相手だと全然だ)
ユノに向けた背中がバリバリに張っている。
少しでも身動ぎすると、互いの身体に触れてしまうからだ。
(昨日からいろいろあったなぁ...)
「ライト...消しますね」
「はい」
チャンミンは長い腕を伸ばして、ライトのスイッチを消した。
パッと、暗くなった。
窓に届く駐車場の灯りは頼りなく、室内は真っ暗闇に近かった。
「狭くないですか?」
「......」
「ユノさん?」
「......」
「寝ました?」
「すーすー」
チャンミンは後ろを振り向くと、寝息をたてるユノの頭に手をのせた。
(この子を一生...。
僕に愛想を尽かして離れていってしまわないように、努力しないと...)
しばし迷っていたが、さわさわと触れるか触れないかのタッチで撫ぜた。
(ユノを『こちら側』に引きずり込んでしまったという罪悪感は、これからずっと、抱き続けるのだろうな。
僕はこの罪悪感に負けないようにしないと)
チャンミンの手の平にユノのストレートヘアが、さらさらと心地よかった。
ユノとの距離の近さに、信じられない気持ちになった。
心配をよそに、チャンミンは欲を感じなかった。
疲れ切っていたこともあるし、無防備な寝顔をさらすユノの眠りを妨げたくなかった。
(『そういうこと』は、おいおい...ね)
そして、声を出さず唇だけの「おやすみ」を言った。
チャンミンはユノの頭から手を離し、彼に背を向けて横たわった。
気を付けたつもりだったが、施設の使い古されたマットレスが、ぎしぃと大きな音をたてた。
「!!」
ユノを起こしてしまったのではないかと、チャンミンは勢いよく振り向いた。
ユノの寝息を確認し、安堵したチャンミンは、もたげていた頭を枕代わりの丸めたバスタオルに預けた。
ひとつの枕を2人で分け合うには小さすぎた。
実は、ユノは目を覚ましていた。
「もっと撫ぜてもらいたいなぁ...」と思っていた。
(つづく)