(7)チャンミンせんせ!

 

 

(他の男と寝ていた...!

僕は...フラれた!)

 

浮気をされたのは今回が初めてではない。

 

惚れたのはチャンミンが先だったこともあり、見てみぬふりをしてきたが、いい加減我慢の限界を超えて浮気を責めたところ、あっさりとフラれてしまった。

 

足元に突如出現した大きな穴に、すとんと落下した感覚。

 

その穴は深く真っ暗で、マイナスな感情だけが渦巻いている失恋の穴だ。

 

強引な彼に惹かれて付き合い始め、2年後の今は半同棲の関係だった。

 

失恋気分に浸る以前に、チャンミンは別の理由でパニック状態だった。

 

(これからの僕はどうしたらいいのだろう。

心の支えを失ってしまった僕は、どう生きていったらいいのだろう)

 

近年のチャンミンは、仕事へのやりがいを見失い気味だった。

 

人間としての成長も感じられずにいるフラストレーションを、恋愛で埋め合わせていたのかもしれない。

 

チャンミンの職業は自動車学校の教習指導員だ。

 

入社して1年間は、車両管理や教習生の送迎車の運転、その合間に二輪をはじめとする複数の免許を取得し、運転テクニックを磨き、道路交通法を頭に叩き込んだ。

 

その後1カ月間の缶詰講習と年に1度だけの試験をパス(実技、学科、模擬授業)して、ようやく取得した資格だ。

 

人に何かを教えること自体自分には向いておらず、苦労してとった資格をうまく活かしきれていないのではと疑問を抱くようになったのだ。

 

小さな不満を抱えながら、日々を投げやりに惰性的に生きてきた(と、チャンミンはとらえている)

 

となると、どうしても恋愛や恋人に依存しがちになってしまうのだ。

 

 

恋人に捨て置かれたチャンミンは、歩いて帰宅するしかなかった。

 

気温は低く、冷たい雨粒をまともにかぶる頭皮はじんじんと痛い。

 

濡れた衣服が体温を奪っていった。

 

今の自分の心情と立場にぴったりだと、チャンミンは情けない姿の自分に酔っていたりもした。

 

「......」

 

チャンミンは気づいていた。

 

自分の後を付いてきている人物がいる。

 

(僕の後ろをずっとついてくる人がいる)

 

信号待ちの時、疑念は確信に変わった。

 

(不審者だ!

チンピラだ!)

 

立ち止まった時、背後の者の足音が数歩遅れで止み、距離を詰めてくることはない。

 

恐ろしくて振り向けない。

 

ドッキンドッキン。

 

危険を察したチャンミンの身体は、体温を上げることで緊急事態に対応する用意を始めた。

 

(誰だ!?

どうして!?)

 

ざーざー降りの雨音で足音も息づかいも聞こえてこず、気配だけがびんびんに伝わってくる。

 

恐ろしくて振り向けない。

 

胸が破裂しそうだった。

 

走り出したくなるのを、ぐっと堪えた。

 

運動が苦手なチャンミンは、走りに自信がない。

 

あっという間に追いつかれて、後ろからタックルされて、固い地面に叩きつけられるのだ。

 

冷たい雨と失恋の涙が似合い過ぎて、そんな自分に浸っていられたのに...。

 

こぶしで涙を拭うついでにさりげなく、背後を窺った。

 

(いる!!)

 

男だ。

 

(怖い!)

 

シルエットから判断すると、若い男。

 

背は高い。

 

逃げたらきっと、追いかけてくる。

 

「いくら持っていたっけ?」と、財布の中身を思い浮かべた。

 

(カツアゲされたら、どうしよう。

お金...彼氏に渡したばかりだから、ほとんどない。

お金が無いと分かって、殴られたり蹴られたりするかもしれない!)

 

チャンミンは歩幅を変えず気づかないふりをして、自宅マンションまでの道のりを黙々と歩いた。

 

茶色いタイルの建物と、エントランスの灯りが視界に入った時には、腰が抜けそうだった。

 

チャンミンの背後で、自動ドアが閉まった。

 

腰が抜けた。

 

 

摂氏43度のシャワーを頭からかぶり、凍えた身体を温めた。

 

(僕はフラれた)

 

頭の中ではっきりと発音して、現実を突きつけるというどMな行為だ。

 

チャンミンにM傾向があるのかどうかは...ここでは脇に置いておく。

 

(『別れたい』って言われた。

『ウザい』って言われた)

 

失恋の激痛をまともに受け止めた。

 

(僕はフラれた。

彼は僕から離れていってしまった)

 

チャンミンの肩や腕は真っ赤だ。

 

(人生で何度目かの失恋...はあ...慣れない)

 

物静かな雰囲気の持ち主だが、恋に関してはどん欲な男なのだ。

 

愛したい6割、愛されたい4割。

 

大好きな人から「大好き」と伝えられ、これほど自信に満ちることはない。

 

風呂から上がっても、涙は止まらない。

 

明日は休みだから、目が腫れていても問題はないけれど、腫れあがった不細工な顔は情けない。

 

湿ったバスタオルを洗濯機に放り込む際、そこに引っかけたTシャツが目に入り、失恋のナイフが胸に刺さった。

 

「飲んでやるぞ」

 

チャンミンは、パジャマ(マーガレット柄)のボタンを喉元まできっちり閉めた。

 

シンク下から焼酎の瓶を取り出し、グラスになみなみと注いだ。

 

「いっぱい飲んでやる」

 

グラスの中身をぐいっとあおった。

 

「ういぃぃ」

 

飲み干して、追加のアルコールを注いだ。

 

胃の腑の辺りがかあっと熱くなり、指先がほかほかと温もってきた。

 

ほろ酔いのチャンミンの背筋が突然、ぶるるっと震え、どっと心拍数が早くなってきた。

 

帰宅してからは失恋気分に浸っていた。

 

次は保留にしておいた件について、考えることにした。

 

(僕の後をついてきた男...目的は何だろう?

たまたま目についた僕をカツアゲしようとしたにしては、いつまでも行動に移さなかった。

知らないうちに、恨みを買っていたのだろうか?

過去に担当した教習生かな?

もしそうなら...怖い。

玄関に張っているかもしれないから、外出の際は気を付けねば)

 

...チャンミンにとって、ユノは不審者そのものだった。

 

 

翌日...。

 

チャンミンに怒りの炎がついた。

 

チャンミンの部屋に置きっぱなしだった男の私物(コンドームや男同士の性行為で使用するアイテムもすべて)を段ボール箱に全て詰めた。

 

シーツや布団カバーはどうしようか、と一瞬迷った。

 

(あいつの匂いが染みついているものなんて...!)

 

ぞっとしたチャンミン、寝具は全部剥がしてゴミ袋に突っ込んだ。

 

男のTシャツは焼き捨ててやりたいくらいだったが、ベランダで火を熾すことはできない。

 

それならば、河原のバーベキュー会場で燃やしてやろうかと、焚火台をネット通販するところだった。

 

失恋真っ只中の人間の思考は極端で、忘れるために思いつく手段は、ユーモアにあふれていたりする。

 

 

ちょうどその頃、20歳の男子大学生が風邪と恋煩いの熱にうなされていたのである。

 

二人が接触するまであとわずか。

 

(つづく)

 

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