~チャンミン~
薄いピンク色の湯船に身をしずめ、後頭部を縁にもたせかけた。
クリーム色の天井の隅の、青黒いカビの跡をじぃっと見上げていた。
「はあぁ...」
41℃のお湯の中、くたりとしていたものがむくむくと首をもたげてきた。
記憶だけでこうだもの。
お湯にゆらぐ白い肌、ありもしない首に胸にと散っている赤い痕が、僕の目に映るのだ。
腰の後ろが、身に覚えがないのにじんじんと痛むのだ。
格子のはまった曇りガラスを透かした朝日のせいで、僕の身体は、生々しく淫らだ。
趣味の悪い色に満ちた風呂場だから、余計に。
僕を呼ぶ彼女の声。
「ああ」と「おう」の間の、「わかったよ」と「うるさいな」の間のどっちつかずの返事をして、僕はざぶりと湯船を出た。
「ねぇ、ユノ。
昨日は何してた?」
「仕事」
ユノの背中にのしかかり、首に腕をまきつけて、僕は甘ったれた声で問う。
ユノの返答はいつも同じ。
ユノの身も心も、仕事で忙殺されているのだ。
それから...彼女のことも、ユノの身も心を支配しているのだ。
それが悔しくて、妬いた僕はユノの首筋に歯をあてる。
「痛いなぁ。
痕がつくだろう」
ユノの後ろ手が僕のうなじをとらえて、ぐいと引き寄せる。
そして、ユノの肩から身をのりだすようにして、彼の唇を受け止める。
「痕が付いても平気でしょ?
僕にもいっぱい付けたでしょ?」
僕らは2人、何も身を付けておらず、シーツもしわくちゃで湿っている。
窓のないこの部屋のど真ん中に、巨大なベッドが鎮座している。
その狭さに息苦しさを覚えてもおかしくないのに、僕らが放つむっとした匂いで密閉された感じが気に入っている。
身体同士の繋がりだけじゃなく、空気もまるごと僕らがひとつになったみたいで。
ユノの襟足に光る汗の雫を、僕は舐めとった。
ああ、僕はユノが好きだ。
その想いが溢れそうで、溺れそうで、怖くなった僕はユノの肩に噛みついた。
「そんなに俺は美味いか?」
「うん...美味しい。
もっと食べたい」
「つっ...!」
「ごめん...」
ぷつりと染み出た赤を、僕はぺろぺろ舐めた。
「美味いか?」
「美味しい」
ユノが好き、好き。
「そろそろ...時間だな」
ベッドの真正面に、掛け時計がある。
短針が6に、長針が12に近づく。
「...そうだね」
満ち足りた気持ちが、しゅるしゅると萎んでしまう。
僕らの貴重な逢瀬の時間が、間もなく終わる。
手離したのは僕の方だから、ユノを責めたらいけないのだ。
ユノを取り戻しにいこうかな...。
こんな逢瀬は終わりにしないと。
日々の目標が、ユノとの逢瀬になってきた。
ユノとの逢瀬が、僕の日常をジワジワと占めてきた。
僕の現実は、不自然で意に反している。
早く抜け出さないと。
沢山の人を傷つけたとしても。
~ユノ~
「チャンミン...寝るな。
時間が勿体ないよ」
チャンミンの丸めた背を揺すると、「うう...ん」と唸り彼はゆらりと身を起こした。
横抱きにして攻めたら、余程よかったのか顎をがくがくさせていた。
この狭苦しい部屋に閉じ込められて、俺たちは繋がってみたり、言葉を交わしたり、また繋がったり...を繰り返している。
始終、いやらしいことをしている訳じゃなくて、4割くらいかな。
チャンミンとはいろんなことを話す。
その日あったこと、感じたこと、とある事柄についての見解など。
俺もチャンミンも、彼女たちについての話題を巧妙に避けている。
思い出話が一番、罪がない。
まだお互いが若く、現実から目を背けていられて、甘ったれていられた時のこと。
全てが底抜けに明るく、隣にいる1分1秒にげらげらと腹をかかえて笑えてくるくらい。
目をキラキラと輝かせたチャンミンの、髪の毛1本すら愛おしくて。
「楽しかったなぁ...」
しみじみとした俺の言い方に、チャンミンは「ジジくさいなぁ」と笑う。
向かい合わせに寝っ転がった俺たちは、くすくす笑いが止まらない。
「目尻にしわができてるぞ」
チャンミンの目尻をつん、と指で突く。
「それなりに苦労したし、いい大人だからね。
...いいなぁ、ユノは」
「いいなぁ、って?
羨ましいことなんてあるのか?
チャンミンの方こそ、充実してるんじゃないのか?」
「...どうだろう...。
何が幸せなのか、分からなくなってきたんだ」
「暗い顔するなって」
「もっとずっと、ユノといたい」
「いればいいじゃないか。
こうやって、会ってるじゃないか」
「それじゃ、足らないんだ」
近頃の俺たちは、こんな会話ばかり交わしている。
もっと一緒に居たいのなら、居ればいいじゃないか。
その方法を二人とも知っている。
簡単なことなのに、なかなか難しいことなのだ。
俺たちを閉じ込める小部屋の壁を...コンクリートと鉄筋で頑丈に造られた壁を、ハンマーで叩き壊すことはできるかな。
時間がかかるだろうなぁ。
穴が開いて、外光が射す頃には、肩を痛めているだろうなぁ。
それよりもっと怖いのは、なかなか開かない穴に焦れてきて、互いに苛立って罵りあうようになること。
やはり、こうやって、日常の空気から遮断されたこの部屋で、思い出話と強烈な快感に浸っているのが、罪がないのだ。
日常を忘れて、平和で甘い時間を過ごしたい。
...そう言い聞かせてきたんだけど。
秒針がたてるコチコチ音が、耳障りになってきた。
間もなくAM6:00。
「うー」と唸ったチャンミンは、シーツの中にもぐりこんでしまった。
「時間だぞ」
「やだなぁ。
帰りたくない」
シーツから目だけを覗かせたチャンミン。
「帰りたくないのは俺も同じだよ」
こういう子供っぽい仕草は、昔と変わらないな。
くしゃりと髪を撫ぜてやった俺は、「先に帰るぞ」と、チャンミンに背を向けた。
「ユノ」
呼ばれて振り返った。
「一緒にいたい...ずっと」
「そうだな」
それ以上の言葉が、出てこなかった。
地上26階から見下ろす風景。
朝日が昇りたての街は、空との境が曖昧でぼうっと霞んでいる。
電子レンジで温めた昨日の珈琲。
香りも味も薄っぺらい、色が付いているだけのお湯をすする。
彼女が目を覚ましてくる前に、こうやって一人、窓外を眺めるのが日課だった。
俺の目には実は、何も映っていない。
窓ガラスに額をつけて、物思いにふけっているフリをしているのだ。
頭の中は、あいつのことでいっぱいだ。
ついさっきまで、確かに俺の腕の中にいたのに、今はいない。
「一緒にいたい...ずっと」の言葉に即答できるはずなのに、言い控えてしまった。
ちゃんと家に帰れたかな。
あいつに噛まれたはずの肩を、シャツの上からさすっても、痛くも痒くもなくて寂しい。
あいつとの逢瀬を待ち望む気持ちが、俺の日常にじわじわと侵食してきた。
先に手放したのは、俺の方だ。
こんな意に反したこと、そろそろ終わりにしないとな。
終わらせるのが、俺の役目だ。
(つづく)
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