「もう疲れた」
別れよう、とチャンミンは言った。
そして、「ごめん」と謝った。
「え...?」
私は絶句する。
チャンミンは一体、いつから別れの言葉を口にする機会をうかがっていたの?
一週間前?
一か月前?
全然気が付かなかった。
チャンミンが別離を考えていた側で、私は呑気に次の休みの計画をたてていたのだ。
あっさりうなずけない。
だって4年だよ?
「嫌だ」とはっきり口にした。
「私はチャンミンのことが好きなのに」
「嫌なところがあれば直すから」
「別れるなんて言わないで」と懇願した。
けれど、無駄だった。
男の人が下した決意は、冷静な熟考の末の答えだ。
チャンミンは情にほだされて決定をひるがえすような人じゃないことは、私がよくわかっているのに。
チャンミンと暮らした部屋に、私一人残された。
チャンミンのいない生活なんて想像できない。
息の根が止まるほど私は苦しんだ。
耐えきれなくて、声が聴きたくてチャンミンの携帯電話を鳴らしてしまう。
「どうした?」って電話に出るから余計に私は苦しい。
言葉が出なくて黙りこくってしまうと、聞きなれた声で「ごめん」と謝るのだ。
「ごめん、本当にごめん」って。
もう私は、チャンミンの「彼女」じゃない。
20代前半の失恋とは、わけが違うのだ。
チャンミンとの思い出と気配を残した部屋に住み続けた。
かすかな期待もあった。
いつか彼が、ふらっと戻ってきてくれるかもしれない、と。
どれだけ待とうと、彼は戻ってこないことはわかっているくせに。
チャンミンの性格を知っているくせに。
意地もあった。
敢えて苦しい状況に身を置いて、歯を食いしばって生きるのだ。
負けるもんか。
「時間が解決するよ」こそ、当人にしてみたら救いのない励ましの言葉だと、友人たちの失恋を慰めてきた自分を蹴り飛ばしたくなる。
仕事は1日しか休まなかった。
今まで通りの生活スタイルを崩さず、この辛さをやり過ごすのだ。
1日1日を刻むように。
心の中では、たった1つの願い。
どうかお願い。
チャンミン、戻ってきて。
カーテンを新調しようと、急に思い立った。
目障りになってきていた。
かつてチャンミンと一緒に選んだカーテンだった。
もっと華やかで、きれいな色のカーテンが欲しい。
奮発して既製品ではなくオーダー品を注文した帰り、喉が渇いて目についたカフェに入った。
カウンター上のメニューを見上げながら、自分の順番を待つ。
私の前の客の会計が、なかなか済まないことに気付いた。
店員もその客も困っていた。
この洒落たカフェは、支払いは電子マネーかカードでのみ受け付けている。
彼が差し出したカードは、高いエラー音を立てて拒否された。
それならばと、財布から紙幣を出しても店員から首を振られて、心底困っていた。
(外国人か)
私の後ろで、イライラを隠そうとしない若い女性がいる。
見かねた私は、「一緒に会計してください」と2人分の会計を済ませた。
彼は目を丸くして、店員からカードを受け取る私の顔を見下ろしていた。
その若い男性の顔を真正面から見て、一瞬チャンミンに似てると思った。
注文した飲み物を受け取って、私と彼はなんとなく一緒に店頭に置かれたベンチに並んで腰を下ろした。
彼の横顔を、ちらちらと観察していた。
浅黒い肌はなめらかだった。
長い首、伸びた髪。
国籍が分かりにくい、全人種のいいところを全部凝縮させたような顔をしていた。
洗濯を繰り返して薄くなったTシャツ。
開いた穴から、膝がのぞいていた。
きっとは着古した結果、擦り切れて開いてしまったのだろう。
でも、彼が身に着けるとファッションとして成立してしまう位、身体のバランスがよかった。
ぱっとこちらを振り向いた彼と、バチっと目が合った。
よく見ると、彼は全然チャンミンに似ていなかった。
どこにいても、チャンミンを探す私だったから、背の高い男の人を見ると誰でもチャンミンに見えてしまうのだ。
それくらい、私はチャンミンのことを引きずっていた。
「ありがとうございます。
出してくれたお金、今払います」
たどたどしく言うと、引き結んでいた口元を緩めてひっそりと笑った。
笑っているのに、哀しげだった。
・・・
彼の名は「モモ」と言った。
本名ではないかもしれない。
その可愛らしい名前を初めて聞いたとき、ぷっと吹き出してしまったが、私が笑う理由が分からないモモは曖昧な笑いを浮かべた。
笑っているのに、哀しげな、ひっそりとした笑いは相変わらずだった。
モモの来歴は分からない。
言葉が不自由なこともあるが、率先して自身のことを語りたがらなかった。
機械油が指の節を染めており、肉体労働の末硬くなった手の平に反して、短く切られた爪や細くて長い指が不釣り合いだった。
そう。
モモから受ける印象は、アンバランスさに尽きる。
散髪のタイミングを逃した長い前髪の下から、知的で思慮深い目元が見え隠れしている。
色褪せたシャツの背中は真っ直ぐで、迷いのない脚運び、破れた穴から覗く膝が上品だった。
膝頭に上品も何もないだろうけど、私はそう思ったのだ。
私の家に来ないか?と冗談めかして誘ったら、しばらく視線を彷徨わせて逡巡した後、こくりと頷いた。
・
捨て猫を拾ったかのようだった。
縋るような哀しげな眼で見上げられると、その思いは強まる。
そんな関係でも、私は全然構わなかった。
枕が一つしかなかったから、私はモモの胸に頭を預けて眠る。
浅黒くなめらかな肌に鼻を押しつけると、彼の香ばしい匂いがする。
誠心誠意を持って、長いまつ毛を伏せて眠るモモを...眠っている時だけはあどけないのだ...愛そうと思った。
なぜ別れを切り出してしまったのか、あの頃の自分の心理が未だに分からない。
一緒に住んでいた部屋を出た後、しばらくの間何度か彼女から電話があった。
「別れたくない。
私、変わるから、お願い」
と縋りつかれても、僕は首を横に振り続けた。
彼女のことは好きだったのに、彼女との関係に疲れていた。
扱いにくい難しい性格をしているだとか、度の過ぎた我が儘を言う訳でもなく。
彼女が「結婚」を期待していたことは、痛い程伝わっていた。
「でも、今じゃない。もう少し後で」と、僕は考えていた。
もともと結婚に対して憧れは薄かったし、仕事も面白いほどうまくいっていたし、同棲関係がちょうどよかった。
だから、彼女の期待が重かった。
彼女の期待に応えるため覚悟を決められない自分に嫌気がさしたし、もの言いたげなくせに、本心を一向に口に出さない彼女から逃げ出したかったんだ。
・
冬物のコートを新調しようと、街に出ていた。
大きな包みを抱えた彼女を見かけた。
あの日、僕の前で顔をくしゃくしゃに歪め、泣きじゃくって僕の腕にすがった彼女がいた。
彼女は一人ではなく、隣に背の高い男がいた。
彼女の背に添えられた控えめな手付きに、愛情を感じた。
遠くにいるのに、はっきりと分かった。
その男を見上げながら彼女は何かを言って、聞き取れなかったその男は身をかがめていた。
彼女から包みを...クッションか枕か?...を受け取っている。
彼女の笑顔が穏やかだった。
僕の大好きだった笑顔だ。
その笑顔を奪っていったのは、僕の身勝手さを優先させた結果だ。
沈んだ暗い想いを抱えて、未練たらしかったのは僕だけだったのかもしれない。
僕の胸がズキッと、何かに刺されたかのように痛んだ。
彼女に別れを告げた時には、こうまで感じなかった程の鋭い痛みだった。
二人の後ろ姿が小さくなって消えるまで、僕はその場に立ちつくしていた。
冷たい木枯らしで、耳がヒリヒリと痛かった。
手放したのは僕の方だ。
胸を痛めなければならないのは、僕の方だ。
彼女の笑顔を守っていくのは、あの彼なんだ。
(おしまい)
[maxbutton id=”27″ ]
[maxbutton id=”23″ ]