「僕が持ちますよ」
片手がふっと軽くなり、隣を見上げるとにっこり笑ったチャンミンと目が合った。
「ありがとう」
「あなたに重いものを持たせられませんから」
チャンミンに取り上げられたその袋には、キャベツがひと玉入っているだけだった。
「私を年寄り扱いしないで」
彼女は肩でとん、とチャンミンの二の腕をついた。
「ふふふ。
事実、年寄りじゃあないですか?」
「その通りね」
買い物客で賑わう商店街。
チャンミンは彼女の背に手を添えて、人混みの中をさりげなくリードしていた。
「今夜は僕がご飯を作りますよ」
「最初からそのつもりだったでしょう?
買い物かごにラム肉なんて入れるんだから」
「ふふふ。
近頃の僕は料理にハマっているんです」
「近頃って、いつもでしょ?」
「まあね」
彼女とチャンミンとの年齢差は親子ほどあった。
いくら彼女が実年齢より若く見えるからといっても、チャンミンと並ぶと姉弟に、もっと意地悪な者の目には親子のように映っていたかもしれない。
でも二人は、そのことに頓着しなかった。
今の二人には互いのことしか見えていなかったし、こんな関係を、チャンミンは満足していたし、彼女は開き直っていたから、人の目などどうでもよくなっていたのだ。
食事の後、彼女はソファに寝転がって、チャンミンはソファにもたれて、それぞれが気に入りの本を開いて眠くなるまで過ごす。(寒い季節は、ソファから炬燵へと場所を移す)
「若いころの話を聞かせてください」
チャンミンは彼女の話を聞くことが好きだった。
彼女の口から語られるストーリーは、聞いている者を引き込む言葉選びと、最後のオチへともっていく話運びが巧みなのだ。
「もう面白い話は出尽くしたわよ」
「面白くなくていいですから。
そうですねぇ...30歳の時の話をしてください」
「30歳ねぇ...大昔過ぎる」
ページから目を離さずにいる彼女に焦れて、チャンミンは彼女の眼鏡を取り上げた。
「それがなくちゃ本が読めないでしょう?」
「小話をひとつしてくれたら、返してあげます」
渋々といった風に彼女はソファに座りなおし、「30歳の時か...」と遠い記憶を辿る。
そして、「30歳と言えば、今のチャンミンと同じ歳なんだ」と、ひやりとした感覚に襲われた。
「もっと若かったらねぇ」
「あなたが若かったら、僕は相手にしなかったと思います」
「私じゃなくて、チャンミンの方が?」
「そうです」
「年増好きなのね」
「ふふふ。
僕は頑張りたくない怠け者なんです。
それから、甘ったれだから。
安心したいんです」
背中を向けて眠る彼女を後ろから抱きしめた。
「年上の女は、安心するの?」
「年上だからいい、っていう意味じゃないです。
あなたといると...のんびりできるんです。
僕は一人でいるのが好きな質ですけど、やっぱり寂しいんです。
あなたといると、一人でいる時と同じくらい楽でいられて、そして寂しくないんです。
最高です。
あなたとは相性がいい、と思っています」
「そう...」
「例えば、今の僕と同じ30歳だったとしたら...
さっきはあんなことを言いましたが、あなたは僕のことなんか相手にしないと思います」
「あら、そうかなぁ?」
「そうですよ」
「僕は退屈で地味な男ですから」
「いつか刺激が欲しくなるんじゃないの?」
「刺激?
刺激なんか欲しくありません」
「そうは言ってもねぇ...
いつか、スタイル抜群の若い子がよくなるんじゃないの?
ほら、チャンミンがたまに見てるじゃない、裸の女の子がいっぱい載ってる雑誌」
「あー!」
「すぐ見つかるところに置いておくんだから」
「一応、僕も男ですからねぇ。
目の保養です」
悪びれずそう言うチャンミンのことが好きだった。
以前の彼女は、初老の自分を恥じていたが、今はそう思わなくなっていた。
彼女の友人たちは、若すぎる恋人の登場に眉をひそめて、「財産狙いじゃないの?」と忠告した。
財産らしい財産なんてないんだし...確かに同世代の平均より多い収入はあったが...。
「私より、彼の方がリッチなのよ」と返すと、友人たちは何も言ってこなくなった。
「僕が先に死んだら、あなたに全財産を譲りますからね」と、チャンミンは冗談めかしたことをしょっちゅう口にし、
彼女が「チャンミンより私の方が先に死ぬ確率の方が高いんじゃないの?」と返すと、
「それは困りますから、せいぜいあなたには長生きしてもらいます」と言って笑うのだった。
「もし...。
僕が誰か...例えば若い女の人のところに行っちゃったら、あなたはどうしますか?」
「どうするも何も、また一人の暮らしに戻るだけ」
彼女はチャンミンとの関係に、深すぎる情を注いではいなかった。
これが唯一の恋でもあるまいし、今まで経験してきた関係のひとつに過ぎない。
激しすぎる感情のぶつかり合いはもう御免だった。
勘当、結婚、出産、失業、DV、借金、離婚、嫉妬、不倫、死別...。
ジェットコースターのようだった人生からもう、卒業したかったのだ。
年齢的に相当早いけれど、気分は隠居生活だった。
そこに降って湧いてきたのが、チャンミンという青年。
正直、最初のうちはチャンミンの存在は、暮らしを乱す雑音そのものだった。
次第に、彼女の中で刻むテンポと求める空気の濃さが、チャンミンのそれと同じであることが判明してきた。
彼女の住む一軒家に出入りするようになり、気付けば一緒に暮らしていた。
「寂しいことを言うんですね」
「『一人に戻る』...そのままでしょ?」
「あなたにとって僕は、その程度の男なんですか?」
「『その程度の男』だと思われたくなければ、そういう仮定の話はやめましょうね」
「ははっ!
そうですね、そうします。
...でも、もし僕に他に好きな人が出来たとします。
その人のところに行ってしまう前に、僕はあなたに毒を盛るかもしれません。
あなたの好きなワインなんかにこっそり入れて」
「どうして?」
「あなたを一人にしたくないし、一人になったあなたを誰かにとられたくない」
「怖い子ね」
「そうです。
僕は、怖い男です」
「平和そうに見えて、利己的なのね」
「そうです。
安心してくださいね。
他の人とどうこう、なんてあり得ませんから」
チャンミンの最後の一言を、彼女は疑っていない代わりに、期待もしていなかった。
自分はこれまで散々頑張ってきた。
これからは人間関係で思い煩うことなく、一人で好きなようにのんびりと暮らしたいだけだ。
そこにチャンミンという伴走者があらわれただけのこと。
だから、チャンミンと彼女の関係性は恋人というより、『友人同士』に近いものかもしれない。
どっちでもいい、と彼女は思っていた。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
チャンミンは、彼女の柔らかいお腹の脂肪をふにふにと指先で弄ぶことが好きだった。
(もっとしわくちゃになってしまえばいいのに。
誰一人、彼女を異性として相手にしなくなればいいんだ。
そうすれば、僕が独り占めできる)
背中にチャンミンの重みを感じながら彼女は、
(この子の好きなようにさせておこう。
この子にも過去があったんだろうな。
ぞっとするほど怖い、寂しい表情を見せたことがあったから。
私の帰宅に気付かず 鍋の中身をかき回していたチャンミンの表情がそうだった。
声をかけられる雰囲気ではとてもなく、私は忍び足で玄関へ戻った。
そして、いつになく騒々しい音を立てて「ただいま」と帰宅したのだ。
私を出迎えたチャンミンは、いつもの彼の顔になっていて、後ろめたい気持ちになった。
見てはいけないものを見てしまった、と)
彼女の下腹を撫ぜているうちに、チャンミンのまぶたは重くなり、じきに寝息が聞こえてくる。
・
この二人に肉体関係はなかった。
「あなたを押し倒すようなことはしませんけど、それでもいいですか?」
付き合って欲しいと彼女に告白した日の、チャンミンの言葉だった。
「私が年寄過ぎて、そんな気にもならないってこと?」
チャンミンがそういうつもりで言っているのではないことを分かってはいたが、チャンミンを試すような質問で返した。
「僕はセックスが嫌いなんです」
心底嫌そうに、鼻にしわを寄せてそう言い切った。
「裸になって抱き合って、アソコとアソコを繋げることに何の意味がありますか?」
そういうことにほとほと嫌気がさしていた彼女は、「同感よ」と頷いた。
「溜まらないの?
女の子を見てムラムラしないの?」
「そうですねぇ。
ムラムラっとはしますけど、その子とどうこうしたいとは思いませんね。
自分で処理した方が、うんと気持ちがいいですし」
「ふぅん。
チャンミンは変わってる子ね」
「僕に限らず、そういう人は一定割合でいると思いますよ。
セックスが全てじゃあないですよ」
「同感よ」と言って、彼女はチャンミンの方へ片手を差し伸ばした。
「僕は...」
チャンミンは彼女の手をぎゅっと握った。
「これくらいがちょうどいいんです」
「同感よ」
と、彼女は微笑んだ。
・・・
彼女は一度だけ、チャンミンを酷く怒らせたことがあった。
交際を始めてまだ日の浅かった頃、彼女は知り合いの娘をチャンミンに紹介したのだ。
「チャンミンにぴったりだと思って。
お似合いよ」
ちょっと気取った感じのレストランで、案内されたテーブルで彼女に紹介され、チャンミンのワクワクした気持ちが一気にしぼんだ。
3人で食事をした後、女の子の家まで送るようにと2人をタクシーに押し込み、チャンミンの手に紙幣を握らせた。
タクシーを見送った彼女は、「これでよかったんだ」とつぶやいた。
チャンミンと交際するようになってから、足が遠のいていた気に入りのバーで、気に入りの席につく。
チャンミンのような溌剌とした若者は、こんな店は似合わない。
ヤニで黄ばんだ時代遅れのポスター、薄暗く、何度も書き直されたメニュー、べたべたするテーブル、古くて汚いけれど、美味しいおつまみを出してくれる店。
今ここでタバコが吸えたらサマになるのにな。
代わりに人参スティックを齧る。
「これでよかったんだ」と。
当時の彼女が、恐れていたこと。
いつ自分を捨てて、若い女の子の元へ行ってしまうのか、と怯える毎日は御免だ。
それならば、自分からお膳立てしてやったほうが、うんとマシだ。
これでよかったんだ。
閉店までグラスを重ねた彼女は、おぼつかない足元で帰宅した。
霧のような雨が降っていて、息が白い。
「...チャンミン...」
門扉にもたれて、両膝を抱えて座る美しい青年、チャンミンがいた。
「やだ...。
いつから居たの?」
しっとりと濡れた髪も、固く組んだ指も氷のように冷たかった。
まだ一緒に暮らしていなかった頃だ。
チャンミンは、突き刺すように鋭い眼光で彼女を睨んだ。
「二度と、しないでください」
押し殺した低い声だった。
「......」
「ああいうことは、大嫌いなんです」
彼女はチャンミンの手を引いて立ち上がらせた。
手がかじかんで、なかなか開錠できない。
もたつく彼女を見かねて、「貸してください」と、鍵をひったくった。
照明をつけ、石油ストーブをつけ、お湯を沸かした。
「チャンミンはどうして私に構うの?
チャンミンからしたら、私はおばあちゃんなのよ?」
湯気立つ紅茶のマグカップをチャンミンに手渡した。
「おばあちゃん、なんて言わないでください。
僕はおばあちゃんと付き合ってるつもりはありません。
...強いて言えば...おばさん、かな?」
「その通りね」
「あなたは、あのまま僕と別れるつもりだったんでしょう?
僕とあの女の子をくっ付けて」
「だって...」と言いかけたが、彼女は口を閉じた。
若いこの子に、年老いていく恐怖を語っても何一つ理解できないだろう、と思ったからだ。
代わりに「二度としない」と約束した。
そこでようやくチャンミンは、笑顔を見せたのだった。
・・・
「何の本を読んでいるんですか?」
チャンミンと彼女のいつもの日課、夕食後のお楽しみ。
「『ヘンリ・ライクロフトの私記』。
架空の人物のエッセイ」
「面白いんですか?」
「だらだらと、ヘンリが死ぬまでの日々や思いを書き綴った本なの。
身の回りのものひとつひとつを細かく描写していてね。
身近のものごとを、1つ1つ見逃さないで、1つ1つコメントしながら暮らしているのよ、主人公は」
「じゃあ、その人の毎日はさぞ楽しいことでしょうねぇ」
彼女といてチャンミンが感心すること。
それは、彼女が日々漏らすつぶやきが的確で、辛辣なときもあるが、そこに悪意が込められていないこと
「そういう生活を送りたいの。
気楽にのんびりと。
大きな事件もなく退屈なんだけど、1日をかみしめるように大事に生きたい」
「僕とそういう風に暮らしたらいいじゃないですか?」
「暮らしてるじゃない?」
「ははは、そうですね」
本をナイトテーブルに伏せると、チャンミンは布団にもぐり込んだ。
「長生きしてくださいね」
やわらかな彼女のお腹に抱きつくと、頬をこすりつけた。
「口が悪い子ね。
そこまで年寄じゃないわよ」
「僕も早く、おじいさんになりたい」
「私の方が先に死んじゃうかもよ?」
「どうでしょう?
女の人の方が長生きだと言いますし。
僕らはほぼ同じ時期に、あの世に逝けますよ、きっと」
「そうなったら、素敵ね」
「あなたが死ぬまで、僕は側にいますからね。
だから、あなたも僕の側にいてください」
(おしまい)
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