【短編】手首を縛られて★

 

 

 

携帯電話を職場に置き忘れてしまったことに気付いたのは、電車が動き出してからだった。

 

一日の労働の後でくたくただったし、肩も凝っていた。

 

今から会社へ引き返す気力もなかったから、そのまままっすぐ帰宅することにした。

 

「しまった!」とヒヤリとしたけれど、同時に携帯電話から解放されて安堵している自分もいた。

 

アパートまであと数十メートルまでのところで、私は足を止めた。

 

くるりと向きを変えて、私は駅までの道を小走りに駆けだした。

 


 

私の彼氏の名前はチャンミン。

 

チャンミンは、いい男だが束縛男だ。

 

異常なまでに嫉妬深い。

 

彼は背も高く顔もよく、かなりの高給どりで、周囲から羨まれた。

 

交際したての頃は、街中で自分の隣を歩く美しい彼が自慢だった。

 

こまめにくれるメールや電話、

忙しい合間をぬって会いに来てくれるし、

記念日のサプライズ、高価な贈り物、そして甘い言葉。

 

最高の恋人なのかもしれない。

 

けれども、徐々に露わになる彼の異常さに気付くまで、一か月もかからなかった。


「今日は何してましたか?」

 

「メールの返信が遅くないですか?」

「この前渡したビタミン剤、毎日飲んでますか?

最近疲れているみたいだから」

じんわりくるきめ細やかな思いやりは嬉しい。

 

「その服装は露出が多くないですか?

他の男どもに、見られちゃうじゃないですか?

ダメです!

絶対にダメです!」

 

朝目覚めてから眠るまでの間、そばにいなくても彼の視線から逃れられない。

わずか2時間、連絡がとれなかっただけでも、彼にとっては一大事だった。

携帯電話は手放せない、絶対に。

 

半年前の出来事を、思い出す。

 


 

まだ私が、チャンミンの尋常じゃない愛情表現と束縛の正体に気づいていなかった頃だ。

彼が出張で遠方に行っていたときのことだ。

商談の前後、手洗いに立った時、食事の時などに、彼はメールを送ってきた。

「珍しいものを見つけたから、お土産に買ってきます」

「仕事は忙しいですか?」

「ひとことでもいいから、返事してください」

私はその日、クレーム対応に追われていて、メール返信ができなかった。

チャンミンからのメールに、ひとつひとつ返答できなかった。

面倒だった。

帰宅してテレビを観ながらビールを飲んでいたら、チャイムが鳴った。

「こんな時間に誰だろう?」と、インターホンのディスプレイにチャンミンが映っていて、心底驚いた。

ぞっとしている自分がいた。

インターホンのカメラを、睨みつけるチャンミンがいた。

 

「どういうこと?出張じゃなかったっけ?」

動揺していて、チェーンがなかなか外せなくて、ドアを開けるまでに手間取ってしまった。

ようやくドアが開くと、彼は無言で部屋に入ってくるなり、力いっぱい私を抱きすくめて言うのだ。

「あなたが事故か何かに遭っているのかと思いました。

もしくは、僕がいないのをいいことに、他の男に抱かれているのかと思いました」

「ちょっと待ってよ、そんなことするわけないじゃない」

チャンミンは仕事を終えるとすぐ、片道4時間の出張先から私の様子を確かめにきたのだ。

呆れる私を、彼は後ろから羽交い絞めにすると、床に押し倒した。

 

「あなたからメールがなくて、僕は生きた心地がしなかった」

私を見下ろす充血した目は鋭かった。

「ごめんなさい」

彼の気迫のこもった眼差しに射すくめて、私は身体をこわばらせていた。

「僕はあなたとひとつになっていたい、ずっと、ずっと」

彼は、パジャマのボタンをひとつひとつ、ゆっくりと外していく。

猛禽類のように瞳をギラギラさせているのに、手つきが優しいから、余計ぞっとした。

しかし、私は拒まない。

これから始まる行為を想像すると、恐怖心と欲望が攪拌するホイップクリームのように混ざり合って、ふわふわと泡立つ。

 

強ばった私の身体から、力が抜ける。

 

甘くて乳脂肪がたっぷりな、ホイップクリームの出来上がり。

私も、彼のワイシャツを脱がせ、ベルトをするりと抜き取る。

指ですくったクリームを彼に差し出すと、彼は私の指ごと舐めとり咥える。

 

彼は私のあごを押さえて、付け根までクリームを塗りたくった指を、私の唇にねじこんで出し入れさせた。

 

ホイップクリームは、なくならない。

 

むくむくと湧いてくる。

 

彼の眼差しは狂気すら感じるのに、同時にその手は優しくて、くらくらする。

堅いフローリングの上で、脱ぎ散らかされた彼のジャケットと私のパジャマを下敷きに、交互に上になったり下になったり転げまわるのだ。

私の身体も自分の身体も、境目がなくなって、ひとつの物体になってしまうまで。

 

私の汗も彼の汗も、混ざり合ってどちらのものが分からなくなるまで。

正面からも、後ろからも、ありとあらゆる体位で。

私の方こそ、彼に夢中だ。

「あなたの中に溶けてしまいたい」

耳元でもらす彼の喘ぎ声を聞きながら、私は彼の頭を抱きしめる。

もし、本当に他の男に抱かれていたと知ったら、私はチャンミンに殺されるだろう。

汗だくになった私たちがシャワーを浴びていると、再び彼は後ろから私を抱きすくめてつぶやく。

「あなたと離れていたくない」

「分かってるよ」

私は彼の方に向き直ると、彼の可愛いお尻を両手でつかんで、爪を立てた。

彼の嫉妬は、自分自身に自信がなくて、その不安を埋めるためのものではない。

 

ただただ、私を自分のものにしたいだけだ。

自分の中に、私を取り込んでしまいたいのだろう。

彼の目には私しか映っていない。

そんなこと分かっている

 


チャンミンは、束縛男かもしれないが、暴力もないし、乱暴なことも言わない。

 

私のアパートの鍵も要求しないし、携帯電話を盗み見ることもない。

 

けれども、少しの間連絡が取れなくなったり、休日を一緒に過ごせなかったりした時の、彼の悲しみようが凄い。

 

がっくりと肩を落として、めいっぱい残念がっている彼の背中を見ると、キュウっと胸が痛くなる。

「ごめんね。

そばにいるから」

彼の頭のてっぺんにキスをして、友人に断りの電話を入れる。

友人との通話中、心底嬉しそうにニヤニヤ笑っている彼を見つめながら思う。

大きくて、可愛い顔をした私の彼氏。

私にのめりこんでいる私の恋人。

彼が私の恋人になってから、途端に付き合いが悪くなった私への友人たちのお誘いも、今じゃ無くなった。

私は全然、寂しくない。

この世は、私と彼の二人だけだ。

 


チャンミンは、私の職場の上司や同僚に対してさえ、本気でヤキモチを妬く。

「外回りは一人でですか?

えっ!係長と?

係長は男ですか?

断れないのですか?」

耳にあてた携帯電話を、思わず離してしまうくらいの大声だった。

「今夜、泊りにいってあげるから機嫌を直して!」

 

拗ねる彼をなだめた。

ふふふと笑う彼の吐息を聴くと、呆れるのと同時にぞくっとした快感を覚えた。

 

私は、

彼に、

愛されている!

 


 

チャンミンと交際して8か月が過ぎたとき、彼は初めて私を縛った。

手首を脱いだTシャツを巻き付けて、私の自由を奪った。

きっかけは、職場の新年会の場にチャンミンからの電話に出た時のことだ。

 

親しげに私の名前を呼ぶ同僚の声が、電話越しにチャンミンに聞かれてしまった。

 

「しまった」と思ったら案の定、しつこく店名を聞き出した彼は、私を迎えにやってきた。

冷やかす声を背後に聞きながら、彼に腕を引っ張られる形で店を出た。

彼の部屋に連れていかれるまで、彼は私の手首から手を一度も離さなかった。

「僕のポケットに鍵があるから」

部屋の鍵を私に取り出させると、片手で器用に開錠し、寝室に直行した。

ベッドに押し倒すなり、着ていた自分のシャツをぐるぐると私の手首に巻きつけたのだ。

目を剥く私に構わず、彼は顔を傾けて私の唇を奪うと、舌を差し込んできた。

その後は、ほとんど覚えていない。

私の指に絡めた彼の指に力がこもるたび、私も彼に応えるように握り返した。

巻かれたシャツは緊縛されていなかったから、手首を動かせば容易に外せたはずなのに、私は縛られたままでいた。

 

ほどいてしまったら、彼が繋ぎとめようとした私の心と身体がばらばらになっていまいそうだったからだ。

「縛ってゴメン」なんて、彼は絶対に言わなかった。

もしそんな言葉を口にされたら、私は幻滅しただろう。


チャンミンは私に依存しているのだろうか。

そうかもしれない。

しょっちゅう「僕はあなたがいないと生きてゆけない」と口にするが、

それは心の奥底から叫んだ、彼の真実の言葉だと思う。

 

いくらいい男だからと言っても、常にジェラシーの炎がめらめらと燃えている人は勘弁だと、大抵の人は思う。

 

けれども、私はそうではない。

私もチャンミンに依存している。

彼からの束縛は、イコール彼の愛情なんだと、私の方も心の奥底から思っているのだ。

縛りたい男と縛られたい女。

この世は私と彼の二人きり。

心も身体も彼のもの。

私と彼の手首は、ひとつの手錠で繋がれている。

 

「僕は嫉妬深い男です」

 

ことの後、二人して、大汗をかいて乱れた呼吸をととのえながら、放心していると彼は話し出した。

 

「あなたを窮屈にさせてしまっていますね

でも、これが僕の愛し方なんです」

彼の視線は天井に結ばれたままだ。

「僕は謝りません」

下着をつけようと身を起しかけた私のウエストに、腕をからませて私を押し倒した。

「束縛してごめん、とは謝りません」

 

彼は横向きになると、私を見下ろした。

暗闇に彼の瞳が光っている。

「これが僕の愛し方なんです」

彼は私の顎をつまんだ。

「それでも、

もし、こんな僕のことが嫌いになったら、

正直に言ってください」

美しい顔をかたむけると、

「もし、こんな僕が嫌になったら...」

私の首筋に唇を押し当てる。

「僕はあなたを手放します。

もし、僕の存在があなたを不幸にしているなら、

僕のことは嫌いだと、はっきり言ってください。

僕はあなたから離れます」

彼の首に腕をからませる。

 

「あなたには不幸になって欲しくないから。

僕はあなたと離れたくありません。

でも、これが僕の愛し方なんです」

私は、彼の頭のてっぺんに唇をつける。

これが、彼の愛し方だ。

私は、もし彼から手放されたら、死んでしまうだろう。

私が束縛されて悦んでいることを、彼は知っている。

チャンミンの胸に頬を押し付け、彼の匂いを嗅ぎながら、手首を縛られたまま私は答える。

 

「そうね、これが私の愛され方なのね」

彼は私を縛りつけている。

​私も彼を縛りつけている。

 

 

 

(つづく)

 

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