~ユノ~
俺は迷っていた。
亡くなった姉の子供を引き取ったばかりで、俺ひとりで一人前に育てられるか不安な時期だった。
その子の登場が原因で婚約者が出ていき、それから3か月も経たないうちに、今の彼と出会った。
「あなたに子供がいようがいまいが、僕には関係ありませんよ」
自分には子供がいると打ち明けた時、彼は「それのどこが問題ですか?」と不思議そうな顔をしていた。
「安心してください。
ユンホさんも、ユンホさんのお子さんも僕が丸ごと守ります」
きっぱり言い切る彼の言葉に、素直に寄りかかれない自分がいた。
子供が懐かないかもしれない。
そして何より、自身の生活に誰かを受け入れて、裏切られる思いはたくさんだった。
彼からプロポーズされたとき、俺は即答できず時間が欲しいと伝えた。
飛び上がるほど嬉しい言葉だったのに。
断る理由をいくつも挙げている自分がいた。
壁に貼ったカレンダーを見やった俺は、ため息をつく。
彼に返事をする約束の日は明日だ。
俺は段ボール箱に本棚の本を詰める手を止めて、もう一度ため息をついた。
この部屋は、俺と姪の2人で住むには広すぎた。
引っ越しを控えていて、荷造りも佳境だった。
元婚約者が残した私物も多く、「いる」「いらない」を選別しながらの作業だったから、時間がかかっていた。
(懐かしい)
20代のころ、夢中になって読み漁っていた作家の本が出てきた。
そのうちの一冊を手に取って、表紙を開くと二つ折りにした紙が挟まっていた。
「?」
メモ用紙に走り書きされた文字の筆跡は、自分のものではない。
『ユンホさんへ。
素直になってください ― C―』
「C...」
コンマ1秒で俺は思い出した。
床に座って本を読んでいた彼。
彼は俺の本棚の本を、片っ端から読んでいた。
読書をしながら、俺の帰りを待っていたのだろう。
ぼたぼたっと、開いたページに涙が落ちた。
待ち合わせのカフェに着いた時、既に彼はテーブルについていた。
約束の時間より30分も早い。
「ごめん、待った?」
彼はまぶしそうに眼を細めた。
「僕が早く来てただけです」
俺の顔をしげしげと見つめていた彼の目が、丸くなった。
「ユンホさん...やっと思い出しましたか?」
俺は頷いた。
「遅すぎますよ。
ユンホさんったら、忘れたままなんですから。
どれだけ僕がヤキモキしたか、分かりますか?」
俺に弁当箱を手渡した時のチャンミンより、歳を重ねた大人の顔のチャンミン。
「でも...。
僕の顔を思い出さなくても無理はないですよ。
あの時のユンホさんは、死にそうなくらい心が疲れていましたから」
チャンミンは立ったままの俺の背中を押して、向かいの席に座らせた。
ささいな動作ひとつひとつが、あの頃のチャンミンのそれと同じだった。
「僕がプロポーズしたとき、ユンホさんが迷っている理由もよく分かっていました。
ユンホさんが僕のことを好きな気持ちも分かっていました。
でも、ユンホさんは悩みに悩んで、『NO』と言う可能性が高かった。
でも僕は、どうしても『YES』の答えが欲しかったんです」
「...チャンミン」
俺は片手で口を覆ったまま、チャンミンの話を聞いていた。
「だから僕は、ユンホさんの耳に『YESって答えなさいよ』って囁きに行ったわけです」
言葉をきったチャンミンは、眉尻を下げて困った表情をした。
「ユンホさん、ずるい僕で幻滅しましたか?」
俺は、ぶるぶる首を振った。
「まさか」
つんと鼻の奥が痛くなってきた。
「ずっと忘れてて...ごめん」
チャンミンは手を伸ばして、俺の手を両手でゆったりと包んだ。
「若い時の僕はかっこよかったでしょう?」
チャンミンの言葉が可笑しくて、吹き出してしまった。
「ああ」
「若いユンホさんも、滅茶苦茶かっこよかったです。
...今もかっこいいです」
チャンミンは、目を半月型にさせて笑った。
「本題に入りますよ」
チャンミンは咳払いをして、姿勢よく椅子に座りなおした。
「ユンホさん。
僕はもう一度、言いますよ。
返事をお願いします」
俺も椅子に座り直し、身を乗り出してチャンミンの手を握り返した。
大きく息を吸って吐いて、吸った。
「僕と...」
「俺と結婚してくれ」
言いかけた口をそのままに、ぽかんとしたチャンミン。
チャンミンの瞳に透明な膜が膨らみ、俺の視界も揺らめいた。
「僕の...台詞をとらないで下さいよ」
両眉を目いっぱい下げて、チャンミンはこぶしでゴシゴシと目を拭った。
「チャンミン。
お前の人生、俺が丸ごと面倒見る」
「ほらぁ...僕の台詞をとらないで下さいよ」
「チャンミンが俺にくれた言葉...丸ごとチャンミンにお返ししたいんだ。
俺はチャンミンに頼りたいし、チャンミンも俺に寄りかかって欲しい。
...返事は?」
「...はい」
「...よかった」
「僕にも言わせてください。
ユンホさん、僕と結婚してください。
...返事は?」
「もちろん。
『YES』だよ」
(つづく)