~チャンミン~
「はっ」
リビングに残された僕は、大きく息を吐いた。
シヅクといると、僕からするすると言葉が出てくる。
加えて、シヅクは僕をドキドキさせるのがうまい。
時計をみると、既に22時だ。
彼女といると、時間が経つのを忘れてしまう。
こんなに楽しいことは、これまであっただろうか?
自分の経験を振り返るのは、止めていた。
深く霧が立ち込めている、見通しが悪い道を進むがごとく、
今自分が居る場所を見失ってしまうような、不安で不快な気分に襲われるからだ。
僕は、今のことだけを考えていたい。
汚れた食器をディッシュウォッシャーへ入れて、スイッチを押す。
コーヒーを淹れなおした。
キッチンの隅に、白い紙袋があるのに気づいた。
(シヅクが持ってきてくれた「お土産」かな?)
渡される前に、中身をのぞくのは悪いと思って、そのままにしておいた。
シヅクが戻らない。
もう15分も経っている。
(まさか、帰ってしまった?)
しかし、コート掛けには、シヅクの赤いコート、その足元にはバッグも残されている。
マンションの廊下は寒いから、上着を羽織っていないシヅクが風邪をひいたらいけない。
まだ電話中でも、コートだけは持っていってやろう。
玄関のドアを開けると、シヅクの声が聞こえる。
(長電話だな)
シヅクは、こちらに背を向けてエレベーターホールにいる。
イヤホンに指をあてて、会話に集中しているようだ。
シヅクにジェスチャーで知らせようとした。
「...だからさ、彼はまだ...違うって!」
(彼?)
「彼」という言葉に反応してしまい、コートを掛けた腕を思わずひっこめてしまう。
シヅクは僕に気づいていない。
「うん...それは分からないよ...日が浅いし...」
「......彼?...どうかな」
(...彼って誰だよ)
僕の胸がギュッと締め付けられる。
(彼って...シヅクの...?)
「えー!今からぁ?」
シヅクが大きな声を出し、僕はビクッとした。
「友達んちにいるからさ...違うって!...女だよ」
(友達?...僕のこと?)
僕の胸が、ますます締め付けられる。
(電話の相手には知らせたくないんだ、僕の家にいることを。
電話の相手は...シヅクの恋人か?
それじゃあ、おかしい、シヅクが言ってた「彼」は誰のことだ?
「彼」って、タキさんのことかな?)
ここまで考えがおよんで、初めて気づく。
僕はシヅクのことを、ほとんど知らない。
シヅクとまとも話をするようになったのは、ほんの数日の間のことで、トータルで12時間もないかもしれない。
「明日でいい?...じゃあ、いつものお店で」
シヅクの電話が終わりそうな気配だったので、僕はシヅクに気づかれないように、静かにドアを開け、部屋へ戻った。
僕は玄関ドアにもたれて、ため息をついた後、天井をあおぎ見た。
「彼」と言ったシヅクの言葉に動揺している自分がいた。
シヅクには、交際している人がいるのかもしれない。
僕の胸がズキズキと痛んだ。
もたれていた玄関ドアが、どんどんと振動した。
電話を終えたシヅクがドアを叩いているようだ。
オートロック式だから、カギが無ければ部屋には入れない。
(チャイムを鳴らせばいいのに...)
意地悪をしてシヅクを締め出してもよかったくらい、僕は腹を立てていたけど、彼女に風邪をひかせたくなかったから、ドアを開けてやった。
「寒い寒い!」
シヅクは両腕をさすりながら、するりと部屋へ入ってきた。
「ずいぶんと長い電話だったね」
知らず知らずのうち、言い方が嫌味になってしまう。
シヅクがぎくりとしたように見えたのは、僕の気のせいだろうか。
「話がまわりくどい奴だったからね」
「彼氏?」
「はぁ?」
シヅクの口があんぐりと開いた。
「あんたの口から『彼氏』という言葉が出ることが驚きだよ」
「僕が『彼氏』って言ったら、そんなにおかしいわけ?」
ついつい言い方がとげとげしくなってしまう。
「チャンミン...あんた、焼きもちやいてたりする?」
「ヤキモチ...ってどういう意味?」
言葉の意味が分からなくて、首をひねっている僕をみかねて、
「ま、ええわ。後で調べときなさい」
楽しそうに言って、リビングに直行する。
「私には、彼氏なんていないよ。フリー中のフリーだ」
僕はよっぽどホッとした表情をしたのだろう、それを見てシヅクはにっこり笑った。
「フリーだから、チャンミンとキスしてもいいわけ」
「コ、コーヒーを淹れなおしたから、シヅク」
思い出して顔が赤くなっているのを、シヅクに見られないよう、僕はキッチンに向かった。
「そういえば、催促してるんじゃないんだけど、その袋の中身は何?」
部屋の隅に置かれたままの紙袋を指さす。
「あ、ああ、それね」
「出張のお土産でしょ?」
「う、うん、でもさ、チャンミンがご馳走を用意してくれて。
ほら、お腹いっぱいでしょ?
今さら、もういいかなぁ、と思ってるんだけど...」
「いいってば!」
シヅクは、しぶしぶ僕にその袋を手渡した。
「何、これ?」
「天むす」
「天むす?」
「海老の天ぷら入りの握り飯のこと」
「おいしそうだね」
「おいしいよぉ、でも、今夜はもう食べられないから、お腹いっぱい」
「明日、食べるよ」
「そうしな、チャンミン」
「ありがとう、シヅク」
「どういたしまして..さてと!そろそろ、帰るわ」
「ええっ!もう?」
「もう23時だよ、チャンミン」
いつの間に、そんな時間になっていたことに驚く。
「せめてコーヒーだけでも、飲んでからにしなよ」
シヅクは既に、コートに腕を通している。
「寂しいのか、チャンミン?」
コートを脱ぐと、シヅクはダイニングチェアに腰かけた。
「オーケー。コーヒーもらおうか」
マグカップにコーヒーを注ぐ僕の胸は、まだチクチクしていた。
(シヅクは恋人はいないと言ってたけど...「彼」って誰のことだろう?
どうしてこのことが、こんなにも気になるんだろう、苦しいんだろう)
「あちっ」
考え事をしていたせいで、マグカップからコーヒーが溢れていた。
「わー、チャンミン、大丈夫かぁ!?」
シヅクは僕からマグカップを取り上げ、冷凍庫から氷を出してきて、世話を焼いてくれる。
楽しかったり、ドキドキしたり、重苦しくなったり、
めまぐるしく変化する感情に、僕は振り回されている。
視界が鮮やかになって、そんな自分を新鮮に前向きにとらえていたけれど、苦しい思いはごめんだ、と思った。
(第一章終わり)
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