ベンチから伸びる影が長くなる。
蝉の鳴く声は相変わらずだけど、暑さが和らいだような気がする。
首に巻いた保冷剤がぬるくなり、隣に座るユノのことが気になり出した。
「ユノちゃん...平気?」
「平気さ。
外は風があるし」
「よかった」
「チャミは気配り上手だね」
「そっかなぁ?
ねぇ、病院に行ったら、何がどう変わるの?
検査するの?
注射は嫌だなぁ...」
「詳しいことまでは知らないけど、薬を飲む必要があるらしい」
「薬!?」
「ああ。
薬を飲むことで、例えば...首の後ろから出る香りが止められる」
「よかった~」
「他にもいろいろ効果がある。
オメガはとっても珍しい存在だって言っただろ?
普通の人たちと共存するために、薬は必要なんだ」
「キョーゾン?」
「辞書で調べな」
ユノはベンチから立ち上がると、2人分の空き缶を自販機脇の空き容器入れへ捨てた。
「帰ろっか?」
「うん」
「オメガの話は、今日のところはこれで終わりだ」
「え~!」
「詳しい話は、専門家から聞いた方がいい」
「もうちょっと教えて欲しいなぁ」
僕らは夕陽を真正面から浴びながら歩いた。
夕刻を知らせる音楽放送が流れた。
僕はユノの影のてっぺん辺りを踏んだり踏まなかったり、遊びながら歩いていた。
ユノは後ろを振り向くと、「そこまで距離を取らなくていいさ」と笑った。
でも、「隣を歩けばいい」とは言わない。
首の保冷材がすっかり溶けてしまった今、僕の香りはユノを苦しめ始めていただろう。
知らず知らずに漏れてしまった「寂しいな...」のつぶやきに、ユノは僕の元へと駆け寄ってきた。
「ぼ、僕!
今夜っ!
今日の夜、お母さんに話すよ!」
「...チャンミン」
ユノはその場にしゃがむと、僕の両肩をつかみ覗き込んだ。
「今夜って...急だろ?
大丈夫なのか?
ひと晩考えてもいいんだぞ?」
「ううん。
『オメガ』が何なのかよく分かんないし、ユノちゃんの話だと『オメガ』って怖いことみたい。
お母さんに内緒にしておきたいけど、内緒にしていたらいけない気がする。
お母さんにはいっぱい心配かけてきたし!
それなのに、『オメガ』だなんてよくわかんないことを聞かされて、きっとお母さん、泣いちゃうよ...っく」
喉の奥から嗚咽が込みあげ、目の奥から熱い涙が溢れてきた。
「早く病院に行って薬飲めば、匂いが無くなるんでしょ?
僕はユノちゃんと一緒に遊べる。
よく分かんないままでいるのは嫌なんだ」
一気にまくしたてた後、ひっくひっくとしゃくりあげる僕の背を、ユノは「よしよし」と撫ぜてくれた。
僕はとん、とユノの肩に額をあずけた。
ユノの首筋は紅潮し、太い血管が浮き出ていた。
僕の香りをかがないように、口で呼吸をしているようだった。
「チャミは凄いなぁ。
怖いことに正面から立ち向かえる奴なんだな?」
「凄くないよ。
大人に助けてもらうんだから。
知らないでいる方が怖いんだ」
ユノはTシャツの裾で、ぐずぐずすする僕の鼻水を拭ってくれた。
まくしあげた裾から、ユノの引き締まった下腹が露わになった。
ユノは今、僕の発散する香りでとても苦しいと思う。
でも、我慢できない僕は、ユノの首にしがみついていた。
「そうだよな。
いきなりだもんな。
気になるよな」
「...うん」
「チャミは素直だな~。
騙し放題じゃん」
「?」
「チャミをからかおうと、俺が嘘ついたとは思わなかったのか?
俺って、チャミをからかってばかりじゃん」
僕はぶんぶん首を振った。
僕はユノの肩から頭を起こした。
「お母さんに話をする時も、病院へ行くときも...もしお母さんが許してくれるなら...一緒に行ってやる」
「ユノちゃんはどうして、僕に優しいの?」
僕のこと、弟みたいに思ってる?」
僕の問いに、ユノのこみかみがくっと動いた。
歩道を通せんぼしている今の僕らは、年の離れた兄弟に見えるのかな?
最近の僕はしょっちゅう、「兄弟に見えるのか見えないのか?」にこだわるようになっていた。
「そうだなぁ...
チャミは弟っていう感じはしないなぁ。
ほっとけないのは確かだけどさ。
もっと対等な感じかな?
トモダチ、かなぁ」
「トモダチだから優しいの?
ユノちゃんはトモダチみんなに優しいの?
僕以外のトモダチにも?」
ユノの部屋で裸になっていた男の人を思い浮かべながら、そう尋ねた。
「チャミ専用の優しさは他の人にはやらない」
「僕専用の優しさ?
ユノちゃんの言うことは、いつも難しい」
「分かんないかなぁ。
この微妙なニュアンス?」
「分かんない」
・
意気込んでいたのに、母は夜勤を頼まれてしまったと言って、この夜は時間がとれなかった。
一度帰宅した母は、慌ただしく夕食と着替えを済ませると、「早く寝なさいね」と言い置いて、すぐに家を出て行った。
母が勤めるクリーニング工場は、機械を止めることなく24時間稼働している。
今夜の勤務が終わるのは、翌朝5時。
「あ~あ。
勇気を出したのに...」
僕はダイニングテーブルに頬をくっつけて、ため息をついた。
ラップをかけられたお惣菜のコロッケが、台所のテーブルに置かれていた。
母が帰宅途中にスーパーへ駆けこんで、僕の夕飯用に買ってきたものだ。
「やば!」
母への打ち明け話が延期になることを、ユノに伝えるのを忘れてた!
僕はカチカチの保冷剤を包んだタオルを首に巻いた。
今夜中に話すと意気込んだ僕だけど、それに付き添うユノの予定を確かめずにいた。
ユノは毎日ではないけれど、夜になると外出し、朝方に帰宅する生活を送っていた。
僕の為に、今夜の予定を空けていたとしたら、迷惑をかけてしまう。
木戸をノックすると、中から「どうぞ~」と、いつもの返事。
室内の光源はスタンドライトだけで、ユノは漫画本を読んでいたようだった。
「そろそろか?」
ユノは書き物机に読みかけの漫画本を伏せて置くと、立ち上がった。
「ユノちゃん、ごめん」
延期になってしまったことを謝った。
「お母さん、忙しいんだな。
夜勤か...大変だな」
「ユノちゃんこそ、大丈夫だったの?」
「今夜はフリーだ。
好きに過ごしてるから」
僕の首に気付いたユノから「チャミ、ありがとう」とお礼を言われてしまった。
「ううん。
首が涼しいから、クーラーが無くても済むね」
室内は蚊取り線香の匂いで満ちていた。
それもそのはず、下宿屋の備品である陶器製の蚊遣りをかき集めて、部屋の四隅で焚いていたからだ。
網戸の隙間から入り込んだ蚊を退治するため。
...と言うより、僕と同じ時、同じ場で過ごせるようにしたユノの工夫なんだと思う。
(つづく)
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