(36)麗しの下宿人

 

「そうね。

『アルファ』は『オメガ』を襲う側になるわね」

 

「......」

 

僕みたいに妊娠する力が増す者たちを『オメガ』というのなら、ユノのような人たちにも正式な名称があるのでは?と気になっていたのだ。

 

「今までずっと、アルファのことを『特定の人』と言っていたけれど、それには理由があるの」

 

医師は僕の疑問に答えるように、説明し始めた。

 

「『アルファ』とは、滅多なことでは口にしてはいけない名称なの」

 

内緒よ、と言わんばかりに、医師は「しっ」と人差し指を唇にあてた。

 

「今までテレビや本で、『オメガ』や『アルファ』の言葉を聞いたり見たりしたことはある?」

 

「ううん」

 

『オメガ』を知りたくて、途中で邪魔が入ってしまったが、図書館まで専門書を探しに行ったくらいだ。

 

「知っている人は知っている。

皆が知っているわけではなくて、専門知識があったり、身近に『オメガ』や『アルファ』がいる人...特に家族がそうだった場合は、存在を知っている。

たいていは、隣人や同僚が『オメガ』や『アルファ』だと知らずに過ごす人がほとんどです」

 

「それくらい分からないものなんですね?」

 

気持ちが楽になった。

 

「皆が知らないでいる理由は分かるかな?

ここで言う『皆』とは、『ベータ』の人たちのことです」

 

「理由は...分からない」

 

僕の脳裏に、混雑した駅やホームセンターのイメージが浮かんだ。

 

(『ベータ』の人がいっぱい。

でも、あの中に『アルファ』や『ベータ』が紛れているかもしれないのか)

 

「『オメガ』とか『アルファ』とか、チャンミン君のような子供の世界では、耳にする機会のない言葉よね?」

 

僕は頷いた。

 

「チャンミン君の学校に、とても賢くて運動神経も優れた子っていないかしら?」

 

医師は本題に入る前に、僕にそう訊ねた。

 

頭がよくスポーツ万能のクラスメイトのひとりが思い浮かんだ。

 

彼こそが僕のことを「臭い」と馬鹿にし、クラスメイトを巻き込んで僕を孤立させた張本人だった。

 

さらに見た目も優れているためカリスマ性があり、クラスどころか学年内で最も目立つタイプだ。

 

...性格は最悪だけど。

 

僕は苦々しく「...います」と答えた。

 

「僕のことを臭い、と言いました」と付け加えた。

 

医師は腕を組み、しばらく思案していたけれど、

「フェロモンの香りに気付くなんて、『アルファ』になる可能性が高いわね。

十中八九、そうなるかもしれない」

 

「なるかも、ってことは、最初から『アルファ』じゃないってこと?」

 

「『アルファ』や『オメガ』は生まれ持った因子なので、突然変異じゃないのよね。

だから、チャンミン君もユノさんも、最初から『アルファ』や『オメガ』の遺伝子を持っていたってこと」

 

思わず隣に座る母を見てしまった。

 

母の横顔は「ごめんなさい」と謝っているかのようで、昼食のテーブルで嗚咽しかけた彼女の姿と重なった。

 

「本人はフェロモンを嗅ぎつけることができても、肉体的に反応はしていないと思います。

12歳じゃ早すぎる

でも、その子が『アルファ』に育つかどうかは分からない。

小学生のうちは能力は開花しないし、本人にも自覚がないの。

『アルファ』の目覚めは『オメガ』よりもずっと遅くて、平均14、15歳ころになると才覚を表わすといわれています。

学校側からそっと呼び出されて、本人と保護者にだけ伝えられる...」

 

「学校はどうやって、その子が『アルファ』だと分かるんですか?

テストで100点ばかりとるから?」

 

「それだけじゃ、ただの頭が良い子に過ぎない。

『アルファ』が特に優れているのは、外見や筋力だから。

知力については、得意不得意な分野がある点が、『ベータ』と変わらないと思う」

 

ユノはいつも、漫画本ばかり読んでいたり、僕の宿題が解けない時もあったけれど、大学の勉強は凄くできるのだろうな。

 

「五感やひらめきに優れていることもあって、成功者に『アルファ』が多いと言われている」

 

「凄い...」

 

ユノもいつか、スーツを着てネクタイを締め、大きな車に乗って...。

 

例えば、僕の父のように...。

 

「中学生になったとき、男女を問わず血液検査が行われます。

健康診断のついでに行われるので、本来の目的を疑う人はいません。

該当者には通知が、専門病院でさらに検査されます

『アルファ』候補の男子は精液を採取します」

 

僕の頬が熱くなった。

 

「......」

 

ユノも同じ経験をした、ということか。

 

「『アルファ』が『ベータ』や『オメガ』とは決定的に違うところがあります。

...この点が重要なところです」

 

「いよいよ本題だと、僕は唾を呑み込んだ。

 

「『アルファ』は妊娠させる能力がずば抜けています」

 

「...え...?」

 

『アルファ』も『オメガ』も、何かというと「妊娠」がキーとなっているようだ。

 

「相手が『ベータ』『オメガ』を問わず、コンドーム無しの性行為は妊娠させる率が高い。

『オメガ』が相手の場合、ほぼ100%の確率で妊娠させます」

 

力があるか無いか。

 

妊娠させる力の強さ、妊娠する

 

(まただ。

下宿屋の蒸し暑い部屋で、男と艶めかしく絡み合うユノ像を思い出してしまった。

また思い出してしまった。

もし、男が『オメガ』だったら、妊娠してしまうってことか...)

 

ユノが僕の耳に「言っとくけど、いっつもムラムラして暮らしているわけじゃねぇぞ」と囁いた。

 

「そうです。

『アルファ』が激しく反応してしまうのは、フェロモンを出している時の『オメガ』に対してですよ。

だから、いつ、どこで『オメガ』に出くわしてしまうのかを、恐れています」

 

医師はユノに続けて言った。

 

「じゃなきゃ、チャミが『オメガ』だって分かったら、そっこー下宿屋を出ていたよ」

 

「それは嫌だ」

 

「俺だって嫌さ。

フェロモンが出るのも一時的なものなんだ」

 

「そうなんですか!?」

 

確かに「匂いが薄らいできた」とユノは話していた。

 

「ええ。

フェロモンについては順を追って説明するわね」

 

「『アルファ』は『アルファ』で、自らの性衝動に振り回される生活を送らないといけないの。

『アルファ』は『オメガ』のフェロモンに誘われる。

成功している分、『オメガ』がらみの不祥事は命取りです」

 

「......」

 

「日々が自らの性衝動との戦いよ。

「『アルファ』は確かに優れた人たちだけど、それを幸せと思うかどうかは人それぞれ...」

 

医師はそう言って、ユノを見た。

 

気の毒そうに、申し訳なさそうな医師の眼差しに、ユノはわずかに肩をすくめてみせた。

 

(つづく)

 

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