僕んちは下宿屋を営んでいる。
たったひとりきりの下宿人の名はユノと言う。
12歳の夏、オメガ性が目覚めてしまった僕は普通の少年じゃなくなった。
そしてすごい偶然なんだけど、ユノは『アルファ』なんだって。
13歳になった僕は、『オメガ』特有の身体変化もさほどなく、『アルファ』の実態も知らずまだまだヒヨッコ『オメガ』だ。
でも、いずれ知ることになる。
怖い。
「どうなってしまうんだろう?」戸惑う僕を、ユノが導いてくれるらしい。
・
オメガだと宣告された日の帰り道、僕と母はファミリーレストランで夕食を摂ることにした。
混雑した店内で誰に聞かれているか分からなかったから、話したくて仕方がないオメガの話題には一切触れなかった。
狭くて居心地のよい我が家のダイニングでの会話のように...夏休みの宿題のことや、老人ホーム入所中の祖父について話をした。
テーブル真上の照明のせいで目の下の隈が際立ってしまい、母はとても疲れて見えた。
今日1日、僕らに降り注がれた情報量は多過ぎだったし、息子を案ずる思いがひとり親の肩に負担をかけていた。
「苦労かけてごめんね」と言いかけたけれど、母に向けて謝罪の言葉こそ口にしてはいけないのだ。
一人息子に謝られたりなんかしたら、母を苦しめてしまうことが分かりきっていたから。
お腹が空いていたから 全部食べた。
診察室で泣いたり気分が悪くなったりしたけれど、やっぱり実感が伴っていない。
現実を理解できない子供でよかったのかもしれない。
『オメガ』になったからと言って、困った経験が無かったせいもある。
レストランを出ると、外は日暮れ時で薄暗かった。
僕は母の手を握った。
初めて息子から手を繋がれて母は目を丸くしていたが、すぐに笑顔を見せ僕の手を握り返してくれた。
母の手は僕の手よりも小さくて、ユノの大きな包み込むような手と比較してしまった。
「ひとりで電車に乗って行けるかなぁ?」
これからの僕には、定期的な通院の必要があるのだ。
「行けるようにならないとね。
仕事が休みの日は、付き添うわね」
「ユノちゃんも付いていってくれるんだって」
「そうね。
助かるわね」
門を曲がった先に我が下宿屋がある。
ユノの部屋がある2階の窓は、どれもが真っ暗だった。
ユノは病院から直接アルバイトに出掛けたらしく、帰宅は翌朝だった。
・
翌春、ユノは2度目の契約更新を済ませた。
暑くも寒くもなく、空気はからりと乾燥した気持ちのよい日曜日だった。
全開にした窓から桜の花びらが舞い込み、色あせた畳の上と真っ白な僕の靴下の上に落ちた。
通りの突き当りに桜の巨木がある。
僕は制服姿でユノの部屋にいた
マスタード色のジャケットとこげ茶色でチェック柄のズボン、同色のネクタイ。
「いいとこの坊ちゃんみたいだな」
壁にもたれて漫画を読んでいたユノは、僕の全身をざっと眺めてそう言った。
「やっぱり派手だよね?」
同級生たちは地域の中学校に進学する一方、僕だけが私立中学へ通学する。
主治医の勧めだった。
思春期を迎えたオメガたちは、いよいよ危険にさらされるようになるらしい。
発情したオメガは、クラス内にいるかもしれないアルファを目覚めさせてしまい、彼らを煽っただの、彼らに襲われただのと校内を混乱に陥れる存在になること必至。
入学早々に行われる血液検査でオメガであることバレる前に、全国からオメガばかり集めた中高一貫校へ進学することに決めたのだった。
学校はバスで片道1時間半かかる場所にあった。
昨秋、学校見学をした際、設備とサービスの素晴らしさに僕は目を見張った。
地方の生徒たちの為に寮が用意され、寮生活をするほどではない近距離の生徒たちは道中危険があってはいけないからと、送迎バスを利用して通学する。
不特定多数のアルファたちから身を守るため、高い門扉と防犯カメラ、警備員が配備されている。
校内にオメガ専門の医療室があり、僕の主治医も定期的に訪れるとのことで、至れり尽くせりだ。
僕は未だヒートを経験したことはないが、ヒート(発情期)中の生徒たちが療養できる宿泊施設もあるんだとか。
オンボロ下宿屋の息子が、こんな至れり尽くせりな環境で学ぶことができるのも、学費も制服代も何もかもが無料だからだ。
なぜなら、オメガとは『保護』すべき貴重な存在だというのが理由だ。
『保護』という言葉が気に入らないけれども。
・
「チャミ」
ユノは膝をてこにして立ち上がると、「肩...余ってる」と笑っておもむろに僕の肩口をつまんだ。
「ジャケットに着せられてるみたいだな」
小柄で痩せ気味の身体がコンプレックスだった。
「このままでいいか。
そのうち大きくなるだろうからな。
俺も入学したての時は、ずるずるの制服を着てたなぁ」
「どうかな。
僕の背は小さいままだと思う」
「デカくなりそうな気はするんだけどなぁ」
ユノはそう言ってくれたけれど、オメガになってしまった以上、彼並みの高身長は望めないと諦めているのだ。
「ユノちゃんも中学の頃、小さかったの?」
「そうだなぁ。
中3の頃、一気に伸びた」
ユノは僕の頭頂部にかざした手のひらを、30㎝上まで持ち上げてみせた。
「『アルファ』が出てきたのもその頃だったかな」
「そうなんだ!」
今初めて、ユノがアルファになった頃の話を耳にして、もっと知りたいと思った。
「どんな風だった?
教えてよ」
ユノは、好奇心が溢れた挙句、ユノの腕をつかんでしまった僕に微笑んで見せた。
「いくらでも教えてやるさ」
昨年の夏以降、僕は自分自身のことでいっぱいいっぱいだった。
学校の課題とアルバイト、僕の通院の付き添いで、ユノのスケジュールは埋まっていた。
通院の道中、僕に危険を及ぼす者はいないかと、ユノは周囲に神経を尖らせていたし、周囲の耳を恐れて『オメガとアルファ』に関する話題は不可だった。
そして何より、『オメガ』特有の香りを放つ間隔と濃さが増してきたせいで、ユノと距離を取らざるを得ない期間が増えた。
振り返ってみると、共に気軽に過ごせる時間が激減していた。
「飯、食いに行くか?」
「行く!」
僕は元気よく即答した。
今日も母は仕事で留守にしており、昼食は残り物で済ませるつもりだった。
「着替えて来いよ」
「うん!」
バタバタと部屋を出ていく僕の後ろ姿を、多分きっと、ユノは優しいまなざしで見送ってくれてると意識していた。
(つづく)
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