(45)麗しの下宿人

 

「!?」

うなじにぞくりと寒気が走り、勢いよく後ろを振り向くと、「どうした?」と表情のユノが僕を見下ろしていた。

「な、何!?」

首筋に何かしらが触れたのは確かで、その何かの正体を探ろうと首筋を撫ぜると、そこは未だほのかに湿っていた。

「どうかしたのか?」

「首に何か...」

首筋をさする僕に、ユノは「気のせいじゃない?」と言った。

「虫でもないし」と、室内を見回した。

少し肌寒いせいで、窓は閉め切っていた。

「そうかも...」

今日はとても疲れている上に、ユノに抱き付いたりなんかして、感覚や感情が狂っているせいかもしれない。

ユノとたくさんおしゃべりしたい気分だったから、時間は無駄にしたくない。

「いいから、座りなよ」

畳に胡坐をかいたユノの真向かいに 僕も膝を抱えて座った。

ユノの裸足は大きく、破れた...デザイン上なのか着古したせいなのか分からない...ズボンの穴からがっちりと頑丈そうな膝がのぞいていた。

洗濯を繰り返したTシャツはユノの筋肉のラインを拾っていた。

目の前のこの人はあまりにも大人で大きくて、あまりにも小さな僕とかけ離れていて、差の大きさを思うと胸が苦しくなった。

これぞ、アルファが放つ圧倒感もあるだろうけど、僕がずっと感じ続けてきた本来のユノへの憧れからだと思いたい。

本能に引き寄せられているだなんて、思いたくなかった。

ユノの部屋はデスクスタンドの灯りだけで、デスクにノートと分厚い専門書が開いていたから、どうやら勉強中だったのだろう。

「邪魔した?」

「いいや、全然」

電気スタンドの脇に処方薬の白い紙袋が置かれていた。

アルファが服用する必要がある 『抑制剤』とやらだ。

身近にオメガがいる環境で生活せざるを得ない時、万が一の事態を防ぐため、衝動性を抑える薬効がある。

加えてオメガが放つ香り...アルファを誘う香り...に鈍感になる。

ユノは昨年の夏から、僕のためにこの薬を服用し続けている。

認可されたばかりの新薬だ。

薬袋の隣に灰皿があって、「あれ?」と思った。

「ユノちゃん...」

「ジャケット、脱いだら?

窮屈だろ?」

ユノの言う通り、新品の制服は肩が凝る。

「貸して」

ユノは僕からマスタード色のジャケットを受け取ると、ハンガーにかけると鴨居に引っ掛けた。

「ユノちゃんって...タバコ吸ってるんだ」

ユノと出会って4年あまり、彼が喫煙している姿は一度も見たことがなかった。

内緒にしていたのかな?

僕が知らない大人の世界にユノが居るのだと思うと悔しい気持ちになった。

僕が指さした灰皿には、吸い殻が3本あった。

会うなりユノに抱きついてしまったり、目の前にいる彼に気をとられていてしまったりで、室内に充満する香りに気付けていなかった。

スモーキーで甘い香りだ。

「あ~、それね。

俺はタバコはやらないよ」

そう言ってユノはポケットから出したタバコの箱を、僕に放ってよこした。

「タバコじゃない」

僕はためつすがめつ観察してみたが、それは商品名すらもプリントされていない、無地の白箱だった。

いぶかしげな僕に、ユノは「あやしいものじゃないよ」と笑った。

「おまわりさんにつかまっちゃうものじゃない。

これは、チャミの近くでいられるためのアイテムだ」

「?」

「この部屋、禁煙じゃなかったよな?」

「うん」

歴代の住人たちによるタバコのヤニで、天井と柱が変色していた。

「1本頂戴」

ユノは1本を口に咥えると、ポケットから三日月柄がプリントされたマッチ箱を取った。

爆ぜた火花に一瞬間照らされた、伏せたまつ毛がつくる影と、真っすぐに伸びた鼻梁に見惚れてしまった。

ユノはタバコ風のものを強く吸い込み、顔を背けて煙を吐き出した。

「うまいもんじゃないんだけど...」

ユノはさらにひと吸いした。

「これはオメガが近くにいても興奮しにくくなる煙だ。

オメガの香りを誤魔化してくれるし、煙を嗅がせることでアルファの鼻と欲を麻痺させてくれる。

チャミ...後ろを向いて」

ユノに手招きされた僕は、彼に背を向けて座りなおした。

「!」

うなじにふっと、空気が吹きかけられた。

「特に首の後ろからの香りが漂うんだ。

チャミは未だ、発情期を迎えていないから分からないかもしれないけれど、発情期中のオメガが出す香りは凄い。

俺たちアルファは平静を保てない。

そうならないために薬を飲んでるんだけど、それだけじゃ不十分なんだ」

僕はくんくんと、シャツについた匂いを嗅いだ。

「吸う機会がほとんどなかったから、仕舞いこんでた。

やっぱ、使い時かなと思って、久しぶりに吸ってみたんだ。

相変わらず、まずい」

ユノは顔をしかめた。

しかめた顔もハンサムだった。

「匂いがきついから、遠慮してたんだ」

ユノはもう一度、僕のうなじに煙を吹きかけた。

「慣れるまで気になるだろうけど、アルファとオメガ界隈ではわりとポピュラーな匂いだ」

「“界隈”って...ふふっ」

ユノの言い方が面白くて噴き出してしまう。

「俺自身、チャミみたいな若いオメガが近くに居た経験はないと言っていい。

だから、何重にも予防しておきたいんだ」

ユノは立ち上がると、僕のジャケットのポケットから例の布切れを取り出した。

「これもそのうちのひとつだよ。

『アルファが近くにいるんだぞ』って、マーキングしてるわけ」

「ふっ...マーキングって...言い方」

ユノは「アルファは鼻が利く」と言って、自身の鼻先をつついてみせた。

「チャミが『オメガ』だって、見つけたのは俺だ。

チャミがいつか、運命の『アルファ』と出逢えるまで、俺はチャミを護る責任を果たしたい」

「嫌だよ!

僕にはユノちゃんしかいないよ!」

ユノの発言は聞き捨てならず、僕は非難の声をあげた。

「俺もそうなったらいいと思う。

チャミはまだ若いし、発情期も迎えていないから先のことは分からない」

「発情期になれば分かるの?」

「ああ。

そのあたり、学校でレクチャーがあると思う」

早々とオメガになってしまったせいで、診察室でされるのは年齢に配慮したどこか概念的な説明にとどまっていた。

オメガ専門の学校という、同じ境遇の同年代の者たちが集められた環境でなら、具体的な身体的変化やアルファからの脅威についての教育が受けられるはずだ。

「で。

どうだった、学校?」

「あ~...」

ユノに訊ねられたことで、今日の出来事を報告したくて、この部屋に駆け込んだんだと思い出した。

ところが、ある疑問が頭を占めてきたせいで、何を話せばよいのか迷子になってしまっていた。

それは煙の匂いだ。

熟れた桃のような香りは初めて嗅ぐものでははかった。

かつて僕が目撃してしまった、ユノが裸の誰かと抱き合っていた日、室内に充満していた香りそのものだった。

 

(つづく)


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