(3)別れられるかよ

 

 

チャンミンは5日経っても、帰ってこない。

 

部屋にひとり残されたユノの心には、チャンミンの捨て台詞の棘が刺さったままで、ズキズキと痛み、化膿しそうだった。

 

『売りを買うなり、ハッ□ンに行くなりしてやる!』

 

ユノとチャンミンにとって、今回のような喧嘩は珍しくもなく、思う存分言い争い、どちらかが謝り(大抵はユノの方から)、仲直りする...スタートからゴールまでが最長で3日が常だったのだが...。

 

今回の5日は初めてだった。

 

意地っ張りのチャンミンのことだから、プライドが邪魔をして帰るに帰れなくなっているのだろうと、高を括っていたのだが...。

 

ユノへの見せしめと興味本位で入店して、見学だけで済ませるつもりが、どっぷりハマってしまって出て来られなくなった可能性が浮上した。

 

ユノは青ざめた。

 

「チャンミンは可愛い顔をしている...奪い合いになるだろう...なんとしてでも連れ帰らないといけない!」

 

ユノはチャンミンを追って、部屋を飛び出した。

 

チャンミンが居そうな場所の検討はついていて、件の店を訪れる前に寄ってみたが、そこにはいなかった。

 

「くそっ!」

 

チャンミンの捨て台詞が現実になってしまう可能性が高まった。

 

 

ここは駅裏手の通り、ユノは5階建てのビルディングを見上げていた。

 

「......」

 

Tシャツの脇が緊張の汗でぐっしょり濡れていた。

 

歩行者たちが立ち尽くすユノを邪魔っ気に避けてゆく。

 

このビルディングに用がある者が現れ、いい男過ぎるユノに物欲しげな視線を送るあたりから、彼とユノの目的地は同じ店だと思われた。

 

舐めるようにユノを見るその男が、エレベータの扉の向こうに消えるまで、ユノは目を伏せてやり過ごした。

 

「ふ~、緊張した...」

 

どのような所かの知識はあるが、利用したことは一度もない。

 

「料金を払って、鍵とタオルを貰って...ロッカーで全部脱いでしまって...部屋が並んでいて...気に入った奴がいたら...」

 

宣言通り、チャンミンが来店なんかしていたら...どうしたらいいのだろう。

 

「知りたいけど発見したくない、俺の恋人がここに居るはずがない」

 

ボヤボヤしていられない...ユノは決心した。

 

何度も言うが、ユノはこの手の建物に近づいたことも、恋人以外の者にその気を起こしたこともなかった。

 

チャンミン・オンリーなのだ。

 

このビルディングは他のテナントも入居しているため、目的の店が何階にあるのか分かりにくい。

 

エレベータのランプが点灯している3階こそが、あの男の行き先...目的地だと判断した。

 

戻ってきたエレベータに乗り込み、3階のボタンを押した。

 

旧式のエレベータはとても狭く、目的階に停止する際、ガクンと大きく揺れた。

 

「『もし』チャンミンがここに居たりなんかしたら...俺はどうなってしまうのだろう」

 

ユノの頭の中で悲観論がぐるぐる渦巻いていた。

 

5日間チャンミンを放っておいた罪悪感と、彼を失ってしまうかもしれない恐怖心が、悲観的な感情を増幅させてしまっていた。

 

チーン。

 

片開きの扉がスライドして、向こうの景色が開けてゆく...。

 

「...っ...」

 

緊張で頬を強張らせていたユノの顎が弛緩した。

 

ユノと対面した人物の口も、あんぐりと開いた。

 

「......ユノ...」

 

「チャンミン...」

 

二人の間で音が消え、時計の長針が半周するほどたっぷりと、丸くなった眼で見つめ合っていた。

 

途中でエレベータのドアが閉まりかけ、ユノは肩を突き出してそれを止めた。

 

ガツンと派手な音をたてたが、肩の痛みは気にならなかった。

 

ユノの色白の肌が、首から頬へと順にぐんぐん紅潮していった。

 

ユノを魅力的にしている黒目がちの瞳が、くっとひと回り縮んだ。

 

ユノの中で何かがプツン、と切れた。

 

「...来い」

 

地底から響くかのような、ドスのきいた低くて太いユノの声に、チャンミンは蛇に射竦められたネズミになってしまった。

 

ユノはチャンミンの二の腕を掴むと、エレベータの中へ力づくに引きずり込んだ。

 

「痛いっ!

痛いよ!」

 

チャンミンの二の腕にユノの指が食い込んで、痛みのあまり抗議しても、ユノは容赦しなかった。

 

エレベータが地上に到着し、通りに出ると、ユノはチャンミンの腕を掴んだまま歩き出した。

 

実は、チャンミンの心境もユノと同じだったのだ。

 

ユノの恐ろしい形相のせいで、チャンミンは自身の怒りを放出する隙を与えてもらえず、口をパクパクさせるしかなかった。

 

『ハッ□ンに行くなりしてやる!』

 

...現実となってしまった...ユノは絶望していた。

 

顔を歪めるチャンミンに気づいて、ユノはチャンミンから手を離した。

 

その後、二人は一切口をきかず、共に暮らす部屋へと帰っていった。

 

 

玄関のドアが閉まったのを合図に、ユノは玄関ドアを背に立つチャンミンの頭の脇に片手をついた...いわゆるこれは壁ドンだが、当然萌える時ではない。

 

チャンミンの鼻先すれすれに、ユノの顔が迫った。

 

「あの喧嘩でムカついていた事は分かる。

だけどな...。

やっていいことと悪いことがあるって...わかんないのかなぁ?」

 

「ぼ、僕は、悪いことなんてしてない!

裏切り行為を犯したのは、ユノだ」

 

「はあぁぁ?

俺の何が裏切りなんだよ?」

 

チャンミンの眼は寝不足のせいで充血し、真っ赤だった。

 

ユノの眼も似たようなものだったが。

 

「なぜ、あの店に行った?

経験したくなったのか?」

 

「ば、馬鹿っ!

そんなわけないよ!

ユノを探しに行ったんだ!」

 

「俺がどうしてハッ□ンに行くんだよ!」

 

「僕があんなことを言ったから...僕に仕返ししたくなって、行ってみたくなったんじゃないかって。

...探しに行ったけど、ユノがあんなところに来るはずないって思い直して、直前で引き返したんだ。

受付から中は1歩も踏み入れてないよ」

 

「俺だって、お前を探しに来たんだよ。

お前があんなこと言うから!

ハッ□ンに行ってやるなんて言うから...」

 

「行くわけないだろ!

ねえ、ユノ...いつまでここにいるんだよ。

話をするなら中に入ろうよ」

 

玄関にユノを残し、チャンミンは逃げるように部屋に上がってしまった。

 

キッチンで水道水をグラスに汲むと一気に飲み干し、深呼吸をした。

 

「上がっておいでよ。

とりあえず...僕らはお互い裏切っていなかったことが分かったんだから。

それぞれが探しに行って、鉢合わせしただけでしょ?

ははは、僕ららしいよね。

一件落着したんじゃないの?」

 

このネタにこだわり過ぎると、こじれて大げんかになると察し、チャンミンは会話を打ち切ろうとした。

 

「どこが一件落着だよ...」

 

ユノも遅れて部屋に上がると、コンロにもたれて立つチャンミンと対面した。

 

「一件落着ってなぁ、俺ん中では解決してないんだよ!

5日間、どれだけ心配してたか分かんないだろ?」

 

「ユノだって、僕を放っておいたくせに!

僕だって不安だったよ」

 

「不安なら帰ってくればいいだろ!

心配したから、あんなとこまで迎えに行ったんだろうが?」

 

「迎えに...って。

利用なんてしてないよ!

さっきも言ったでしょ?

ユノを探しに行ったんだって!」

 

「お前、自分が言った言葉、忘れたのか?

俺が特に怒っているのはどこなのか、分かってるのか?

言っていいことと悪いこともわからないなんて、どこまでガキくさいんだよ!

大人になれよ!」

 

両脇に落としたユノのこぶしが、プルプルと震えていた。

 

ユノの指摘は、チャンミンが深く反省していた点を鋭く突いていた。

 

ところがチャンミンは、謝るどころか、痛いところを突いてきた事に腹を立てたのだ。

 

「俺...お前についていけない。

マジで疲れる」

 

チャンミンはユノを睨み返した。

 

「僕についてゆけないなら...別れればいいじゃん。

僕の方から...別れてやる!」

 

「ほう、そうかい。

別れてやるよ」

 

ユノの言葉を受けてチャンミンの中でぷつん、と何かが音をたてて切れた。

 

チャンミンはとっさに、水切りラックのしゃもじを掴んだ。

 

くるりと背を向けて部屋を出て行くユノに、それを投げつけた。

 

チャンミンの為に補足しておくが、しゃもじを投げつけたのは「行かないで」とユノを引き留めたい意味も込められていた。

 

「ふん、勝手にしろ」

 

 

「振り返ってみると、2回目の喧嘩もアホらしいな」

 

「うん...もぐもぐ」

 

激しい運動の後は腹が減る。

 

二人は取り寄せた無料サービスの軽食を、むしゃむしゃ頬張っていた。

 

「チャンミンは、嫉妬深いし、怒りっぽいし、潔癖気味だし、とんでもねぇコト言うし...つくづくめんどくせぇ奴だ」

 

「あのさ。

それって...悪口でしょ?」

 

「最後まで聞きたまえ。

快楽に弱くてすぐにイっちまうし、俺の帰りを起きて待ってるし、肩を揉んでくれるし。

俺を探してハッテ□まで行くし。

それって全部...俺のことが大好きだからなんだろ?」

 

「うーー...」

 

ユノの言葉はすべて図星で、チャンミンの顔からぽっぽと湯気が出た。

 

ユノはソースの付いたチャンミンの口元をナプキンで拭いてやる。

 

「これからも、好きなだけ『別れてやる』って言っていいぞ。

俺と別れられないくせに、『別れてやる』だなんて...ホント、可愛い奴だなぁ」

 

「もお!」

 

チャンミンはユノにとびかかった。

 

恥ずかしさで全身のもぞもぞ感に耐えられない。

 

「でも...。

やっぱり傷つくからさ、3回に1回まで減らして欲しい」

 

「そんな程度でいいの?」

 

「う~ん。

じゃあ、10回に1回」

 

「分かった」

 

チャンミンはユノの首筋に、頬を摺り寄せた。

 

「もう一回する?」

 

「ん~、後にする。

今はチャンミンとくっ付いて眠りたい」

 

「へぇ~、可愛いことを言ってくれるんだね~」

 

「ふふん」

 

ユノはチャンミンの頬を両手で包み込み、顔を覗き込んだ。

 

「なあ。

もし、俺の方がチャンミンより先に『別れてやる!』って言ったら...どうする?」

 

「ユノはそんな言葉、絶対に言わないよ。

僕は分かっているもん」

 

その通りだよ、とユノが心の中でつぶやいたのは、チャンミンはお調子者だから。

 

「もう寝ようか。

ネカフェじゃ熟睡できなかったんだ」

 

「ネカフェに居たんだね」

 

「チャンミンこそ、どこに居たの?」

 

「僕もネカフェ。

ユノはどこの店だった?」

 

「××。

お前と知り合った店だよ」

 

「そうなんだ!

思い出の場所だからね~。

『もしかしたら、ユノが迎えに来てくれるかも』って思うと、ホテルだと分かんなくなるし」

 

「もしかして...と思って、そのネカフェにも顔を出したんだぞ。

でもチャンミンは居なかった。

ってことは...宣言通りにハッ□ンに行ったのでは!?...そういう訳さ」

 

 

ユノとチャンミンは午前8時まで眠り、それからシャワーを浴びた。

 

「ユノーーー!?」

 

チャンミンは鏡に映った自分の首筋に、いくつものキスマークを発見して悲鳴をあげた。

 

「酷いよ!

衿からはみ出すじゃん。

最低最悪!」

 

チャンミンにポカスカ肩を突かれ、よろめいたユノは同様のことをチャンミンにやり返した。

 

「チャンミンこそ、思いっきり噛みつきやがって。

お湯が沁みて痛い!」

 

ユノは水に切り替えたシャワーを、チャンミンの頭からぶっかけた。

 

「冷たいなぁ!」

 

チャンミンはユノの背中に飛びついて、反対側の肩に噛みついた。

 

「このやろ!」

 

ユノはチャンミンの腕の中で身体を反転させると、チャンミンの乳首をつねった。

 

「痛い痛い!」

 

「感じているくせに!」

 

「うるさいうるさい!」

 

子供みたいな取っ組み合いが絡み合いになり、アレへと突入してしまったのは予想通り。

 

チェックアウトまで、二人は濃く深く繋がり合った。

 

二人は喧嘩ばかりしている。

 

『別れてやる!』

 

交際中、相手の気を引くためや、脅しのつもりだったとしても、その言葉は本心でない限り口にしたらいけない。

 

今後、彼らは何度も大喧嘩をするだろうし、『別れてやる!』も飛び出すかもしれない。

 

それでも、言葉通り別れることは、おそらくないだろう。

 

別れてやるつもりなんて、さらさらないのだから。

 

喧嘩するほど仲がよい。

 

まさしく彼らの為にある言葉だ。

 

 

(おしまい)