3.大好きだった(後編)

 

 

 

「食事に...行きませんか?」

 

おずおずと切り出され、一瞬だけ迷って、

 

「はい」

 

と私は返事をした。

 

「よかったです」

 

彼は、心からホッとした表情をした。

 

彼に案内されたのは、古くて大賑わいの居酒屋で、スマートな装いの彼が浮いていて可笑しかった。

 

「いきなり高級レストランじゃ、大げさかと思いまして」

 

照れて目元をほころばせた。

 

「ここなら、メニューが豊富ですし」

 

メニュー表を私の前に広げる。

 

「好きなものを選んでください」

 

食欲なんて全然なかったけれど、彼に変に思われたらいけない。

 

店員を呼んだ彼は、私がでたらめにメニューを指さす通りに、注文を済ませてくれた。

 

次々とテーブルに料理が届く。

 

私は、おそるおそるだし巻き卵に箸を伸ばした。

 

出来るだけ小さく刻んで、口に運んだ。

 

「あ...」

 

じわっと広がる命の味。

 

ちゃんとした食事をしたのは、いつだっただろう。

 

私の身体に命が満ち満ちていくのが分かった。

 

かさかさになった私の筋肉に、骨に、血管に、栄養たっぷりの点滴液が巡り廻っていく感覚だった。

 

気付くと、揚げ出し豆腐も、海老の串揚げも小皿にとっていた。

 

「貴女は、美味しそうに食べるんですね」

 

「え?」

 

「見ていて気持ちがいいです」

 

あまりに美味しくて、じわっと涙がにじんでしまって、焦った私はおしぼりで目を拭う。

 

「美味しいですか?」

 

「ええ、とっても」

 

彼は、それはそれは優しい笑顔を見せた。

 

目尻のしわのおかげで、安心して見られる笑顔だった。

 

「よかったです。

このお店の料理は、全部美味しいんですよ」

 

財布を取り出す私を制して、彼は会計を済ませ、私たちは店を出た。

 

夏の気配が感じられる、湿度が高くて暖かな夜の空気が私たちを包む。

 

「駅まで一緒に行きましょうか」

 

隣を歩く彼の精悍な横顔を見上げた。

 

私の視線に気づいて横を向いた彼と、目が合った。

 

とくんと心臓がはねた。

 

「あの...あの!

今夜はありがとうございました」

 

頭を下げる私の肩の上に、彼の手がぽんとのった。

 

「お礼を言うのは僕の方です。

誰かと一緒に食事をするのは久しぶりでしたから」

 

細めた彼の目が、少しだけ潤んでいるように見えた。

 

ごく最近に、彼も誰か大切な人を失ったのだろうか?

 

彼の笑顔は素敵だけれど、笑顔の筋肉を久しぶりに動かしたかのような、ぎこちなさがあったから。

 

なんとなく、そんな感じがした。

 

 

 


 

 

突如、眠りの一日が訪れた。

 

眠くて眠くて仕方なかった。

 

1年半分の睡眠不足を取り戻すかのような一日だった。

 

夢も見ず、“泥のように”の言葉通り、こんこんと眠った。

 

そよぐ風で目覚めた。

 

チャンミンは裸足のままベランダに出て、フィロデンドロンに水を与えていた。

 

鉢底から水が流れ出るまで、たっぷりと。

 

ベランダに出しっぱなしでも大丈夫な季節になっていた。

 

「よく眠ってましたね。

マイさんが寝ている間、僕は3回も一人でご飯を食べましたよ」

 

ちょっとだけ拗ねた口調で言いながら、室内に戻ってくる。

 

そうだった。

 

チャンミンには部屋の鍵を渡してあったんだった。

 

「マイさん、進歩していますよ。

上手くなりましたね」

 

床に直接座ったチャンミンは、私のスケッチブックを膝に広げていた。

 

「恥ずかしいから!」

 

手を伸ばすと、チャンミンはスケッチブックを高く掲げてしまう。

 

「僕の顔を、いつ描いてくれますか?」

 

「え?」

 

スケッチブックを取り返そうとした手がぴたりと止まった。

 

「あの...もっと上手くなってから...」

 

「冗談ですよ」

 

チャンミンはスケッチブックを私に返すと、マットレスにあごをのせて、じーっと私を見上げた。

 

「頬がふっくらしてきましたね。

よかったです」

 

優しい性格そのままの、丸いカーブを描いたまぶた。

 

チャンミンに気付かれただろうか。

 

チャンミンは鋭い。

 

あどけない眼差しにさらされて、私の心は怯えていた。

 

「安心しました」

 

寂しそうな笑顔だった。

 

懐かしい笑顔だった。

 

 

 


 

「今日は、遠回りしていきましょうか」

 

チャンミンと手を繋いで、足を向けたのは市民公園だった。

 

日が暮れて、完全な無人になった公園は、日中の健全な空間から一変して寂しくなる。

 

夜のしっとりとした空気、木々が放つ青臭い空気。

 

砂利道の遊歩道は、公園の大きな池を一周している。

 

この公園は、私とチャンミンのお気に入りの場所だった。

 

池には鯉が飼われていて、池をまたぐ橋から餌を投げてやるのを二人で楽しんだのだ。

 

無人販売小屋の空き缶に硬貨を入れて、パンの耳が詰められたものを買って。

 

いっぺんに投げ込んだ私と、目当ての鯉に狙いを定めて少しずつ投げてやったチャンミン。

 

「食いしん坊なあの太った鯉は、マイさんですね」とチャンミンが言って、

 

私は「離れたところにいるあの鯉は、マイペースなチャンミンみたい」とからかった。

 

そんな思い出のある公園だった。

 

 

「マイさん」

 

ずっと無言だったチャンミンが、口を開いた。

 

チャンミンが何を言おうとしているのか分かった。

 

「好きな人が、いますね」

 

自分でもはっきりわかるくらい、肩がビクリとした。

 

「僕は気付いていましたよ」

 

私たちは立ち止まった。

 

柵の向こうの池は、夜の闇に沈んでしまっている。

 

「...ごめんなさい」

 

そう言うのがやっとだった。

 

チャンミンと繋いだ手が、汗ばんでいる。

 

「謝らないでください」

 

チャンミンは手を離すと、私の両肩に手を置いて、私を覗き込んだ。

 

チャンミンの顔も、闇夜に包まれてしまって、表情はうかがえなかった。

 

「ごめんなさい!」

 

涙が出そうなのをこらえる。

 

泣いたらいけない、涙はずるいから。

 

「マイさん...」

 

「ごめんなさい。

いつかは言わなくちゃいけないと思っていたの」

 

「マイさん」

 

「ごめんなさい。

チャンミンはずっと、私のそばにいてくれて...」

 

駄目だ。

 

涙を止められない。

 

「チャンミンは、

いっぱい...いっぱい...

私を支えてくれたのに...」

 

涙が次々とこぼれて、鼻水も出てきて、しゃくりあげてうまくしゃべれない。

 

「ずっと...ずっと...

 

チャンミンだけを、

チャンミンだけを、

好きでいたかったのに...。

 

本当に...ごめんなさい!」

 

「マイさん、謝らないで!」

 

チャンミンは大きな声を出すと、腕を伸ばして私を引き寄せた。

 

「違うんです。

悪いのは、僕の方なんです」

 

チャンミンは私の首筋に頬を埋めると、吐き出すように言った。

 

「僕がマイさんを引き留めていたんです」

 

 

 

 

 

 

 

あの日。

 

あの冬の日。

 

冷たいみぞれ雪が降る夜。

 

こんな天気に、こんな時間に、カラスみたいな恰好の女を、公園で降ろしたタクシーの運転手さんはどう思っただろう。

 

池には薄氷が張っていた。

 

黒いコートも黒い靴も脱いだ。

 

氷のように冷たい鉄柵をつかんで、上半身を乗り出した。

 

身体を痛めつけてやる、凍り付かせてやる。

 

空からぼたぼたと落ちる氷水が、黒いスーツをどんどん濡らしていった。

 

チャンミンのいない人生なんて、想像がつかなかった。

 

自分の人生プランに、こんなイベントが起こるはずがなかった。

 

断じて受け入れたくない!

 

 

チャンミン。

 

 

チャンミン。

 

 

チャンミン!

 

 

どうして私を置いていってしまったの?

 

続きを楽しみにしていたドラマも、まだ途中だよ。

 

誕生日プレゼントは、もう用意してあるんだよ。

 

一緒に暮らそうって、言ってたじゃない。

 

どうして冷たくなってしまったの?

 

そんな怖い顔していないで、笑ってよ。

 

目を開けて「じろじろ見ないでください」って笑ってよ。

 

チャンミンのいない人生なんて、あり得ない。

 

 

チャンミンの元に行きたい。

 

 

ストッキングの足を柵にかけた時、

 

ぐいと腕を引っ張られた。

 

 

「何をやっているんですか!」

 

 

チャンミンが現れた。

 

 

チャンミンだ!

 

 

引き寄せられたチャンミンの胸が、頼もしくて温かくて。

 

「マイさんは、僕がいないと駄目ですね」

 

私が大好きだったダッフルコートを着ていた。

 

「おうちへ帰りましょう」

 

チャンミンは広い背中を見せて、私の前でしゃがんだ。

 

私がチャンミンの首に腕をまわして、体重を預けると、チャンミンは私をおぶって軽々と立ち上がった。

 

首筋に鼻をくっつけて、チャンミンの匂いを吸い込んだ。

 

よかった、温かい。

 

よかった、チャンミン生きていた。

 

よかった、チャンミンが戻ってきた。

 

 

もしくは、

 

私は、あの世に行けたのかな。

 

あの世のチャミンに会えたのかな。

 

あの世で、チャンミンにおぶわれているのかな。

 

どちらなのか分からなかった。

 

どちらでも嬉しかった。

 

幸せだった。

 

けれども、心の底では分かっていた。

 

どちらもあり得ないのだと。

 

これは夢なのだ。

 

チャンミンを恋焦がれる狂った精神が、チャンミンの亡霊を見せているのだと。

 

ところが、夢じゃなかった。

 

びっくりした。

 

最後に別れたあの図書館前に、チャンミンは待っていた。

 

行けば必ず、チャンミンは待っていた。

 

そして、手を繋いでおうちに帰るの。

 

お~て~て~繋いで~、野道をゆ~け~ば~♪

 

チャンミンと思い出話をたくさんして、チャンミンの腕の中で眠りにつく。

 

 

私の初めては、全部チャンミンと経験した。

 

二人で、数えきれないほどの初めてを味わって、一緒に笑って、泣いた。

 

思い出話ばかりしていたら、過去の世界にとどまり続けるばかりで、先に進めないって?

 

 

ううん。

 

そんなこと、なかった。

 

思い出話をすることで、昇華された。

 

チャンミンとの思い出を、少しずつ過去のことにしていけたの。

 

 

夢じゃなく、確かにチャンミンは存在した。

 

冷え切って固くなってしまった手じゃなかった。

 

温かな手で私に触れていた。

 

私の心が、しゃんとするまでチャンミンは、私と手を繋いでいてくれたの。

 

 

 


 

 

マイさんを一人にできなくて、僕はいつまでもマイさんのそばに居続けました。

 

どんどん痩せていくから心配で。

 

僕のせいで、マイさんをこんな風に苦しめてしまって。

 

打ちのめされたマイさんが元気になるまでは、見守ろうって決めたんです。

 

そのうち、欲がでてきたんです。

 

僕は、ずっとずっと、マイさんの側にいたくなったんです。

 

離れがたかったのは、僕の方なんですよ。

 

でも、僕の役目は終わったようですね。

 

 


 

 

「マイさんは、素敵な人です」

 

チャンミンは、私を抱きしめて、私の頭を撫でながら言った。

 

「だから、マイさんが好きになる人も、素敵な人です。

 

彼は...

悔しいですけど、

 

僕よりずっといい男です」

 

顔を上げようとする私を押さえるように、チャンミンの腕に力がこもった。

 

「彼なら大丈夫です。

 

彼なら安心して、マイさんを任せられます」

 

チャンミンの大きくついた一呼吸に合わせて、彼の胸も上下に動いた。

 

 

 


 

チャンミン。

 

手を繋いでいてくれてありがとう。

 

私が前に進めるようになるまで、側にいてくれてありがとう。

 

みぞれ雪の夜、私を助けてくれてありがとう。

 

生きる道を、私に残してくれてありがとう。

 

 


 

 

「マイさん」

 

私を抱きしめる腕をゆるめると、チャンミンは私の顔の高さに腰をかがめた。

 

「はい」

 

「僕の最期のお願いをきいてくれませんか?」

 

こくこくと頷いた。

 

「キスしてもいいですか?」

 

私は、大きく頷いた。

 

そっと唇が触れるだけの優しいキス。

 

少しだけ口を開けたら、チャンミンの温かい舌が私の舌にちょんと触れた。

 

私の涙と、チャンミンの涙が混じってしょっぱい味がした。

 

 

「このキスが、僕の生きる糧になります...って、生きるって言い方も変ですけどね」

 

ふふふっとチャンミンが笑った。

 

 

 


 

 

マイさん。

 

 

大好きでした。

 

 

僕は貴女のことは忘れません。

 

 

でも、マイさんは僕のことを忘れてくださいね。

 

 

僕の手じゃなく、彼の手を繋いでください。

 

 

全部忘れられたら、やっぱり寂しいので、1年に1度は僕のことを思い出して下さいね。

 

(おしまい)

 

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