4.忘れられないの-前編-

~彼~

彼女への誕生日プレゼントを探しに出かけた日、通りの向こうに彼女を見かけた。

 

彼女は、ショウウィンドウをじぃっと見つめていた。

 

声をかけようと、わくわくした気持ちを抱えて、横断歩道を小走りで渡った。

 

「偶然だね」「わぁ、びっくりした」なんてやりとりを想像しながら。

 

肩を叩いて、びっくりさせよう、っていたずら心も湧いていた。

 

ところが、僕の足は止まる。

 

彼女のあまりにも真剣な眼差しに気づいたから。

 

そこは花屋だった。

 

ショーウィンドウの向こうは、色とりどりの花と緑が瑞々しい。

 

彼女の目は、目の前の植物たちを通り越して、うんと遠いところを見ていた。

 

声をかけられなかった。

 

無心で見つめている背中が、「邪魔をしないで」と語っていた。

 

もしかして、昔の「彼」のことを思い出しているのでは...と、嫉妬心が僕の胸を焼いた。

 

 

 

 

市民会館で開講された、週に1度のデッサン教室で彼女と出逢った。

 

軽い気持ちで受講した僕の隣の席が彼女だった。

 

折れそうなくらい細い手首をしていて、腫れぼったいまぶたで、心をどこかよそに置いているような、上の空な感じの人だった。

 

でも、誰かと言葉を交わすときになると、瞬時に表情を切り替える。

 

僕の描く下手くそな絵を見て、吹き出した彼女の笑顔に、僕の心はさらわれた。

 

あっという間に。

 

彼女には、既に恋人がいるのだと思い込んでいた。

 

なぜなら、僕を見ているのに、その瞳の奥が僕を通り越したところを映しているみたいだったから。

 

ベタな誘い方だったが、「お茶でもどうですか?」って、次の週には声をかけていた。

 

週に一度のわずか30分ほどだが、彼女とコーヒーを飲む時間が楽しみだった。

 

そのためにデッサン教室に通い続けていたと言っても過言ではない。

 

彼女の心のガードは固く、食事に誘えるまでに時間がかかった。

 

彼女の心には、誰か他の人がいる。

 

そうであっても、痛々しく儚げな彼女に、僕はどんどん心惹かれていった。

 

30年ちょっとの人生の中で、彼女は僕が2番目に「好きになった人」となった。

 

 

 

 

彼女には打ち明けていた。

 

自分には長く交際していた恋人がいたこと、そしてその人を2年前に亡くしたこと。

 

かっこ悪いことに、聞き上手の彼女に質問されるまま、ほぼ洗いざらい話してしまった。

 

「その方の名前は?」

 

その恋人の名前も、聞かれるまま教えてしまっていた。

 

過去を語らない男が理想だったにも関わらず。

 

2年前だったら辛くて口にできない名前だったのが、今の僕には抵抗はなかった。

 

それくらい、気持ちの整理がついていた。

 

深く深く愛していて、その人を失った当時の僕は亡霊のようで、長い期間苦しんだ。

 

今でも記憶の深いところで、その人への愛情は存在している。

 

けれども、今の僕の心の中心は彼女だ。

 

 

 

 

彼女にも、亡くしたばかり恋人がいると知った時、僕の頭に「似たもの同士」という言葉が、ぱっと浮かんだ。

 

似たような境遇の者は、やはり惹かれあうものなのだろうか。

 

でも、そんな言葉でひとくくりに片付けてもらいたくなかった。

 

最初は僕の片想いだった。

 

もう2度と恋なんかできないと諦めていたのが、今こうして新たな恋を得て、僕は嬉しかった。

 

少しずつ、距離を縮めていった。

 

ところが、彼女に自分の気持ちを伝えた日、彼女は首を振った。

 

「ごめんなさい。

シムさんとお付き合いできる資格は、今の私にはありません」

 

ああ、と落胆のあまり全身の力が抜けた。

 

「彼氏がいたのなら、申し訳ない。

僕が言ったことは忘れてください」

 

「そう言っていただけて、嬉しいんです。

彼氏は...いません。

でも、今はダメなんです」

 

僕の交際人数なんて、亡くなった恋人ひとりきりだったから、新しい恋を始める手順がわからなかった。

 

「僕のことは?」

 

ずいぶん不器用な、かっこ悪い台詞を発言してしまったものだ。

 

彼女は、ため息をつき、

 

「...恋人を亡くしたばかりなんです。

1年半も経つのに、忘れられないんです。

貴方のことは気になります。

でも...、彼に対して悪いことをしているかのような、罪悪感があるんです。

こんな状態で、貴方とつきあったりなんかしたら、貴方に失礼です」

 

真っ赤な目をした彼女は、そう言って哀しげにほほ笑んだ。

 

 

それでもいい。

 

彼女が漂わせている「寂しそうな空気」を、僕の手で晴らしていくから。

 

だから僕は、諦めなかった。

 

「今は駄目だ」と言った彼女の言葉、「今は」に望みがあると思ったから。

 

初めて食事に誘った夜を境に、上の空で遠くを見ていた彼女の目に力が宿ってきた。

 

彼女がまとっていたピリピリとした空気が消えた。

 

彼女といると、穏やかで温かくて、ほっとくつろげた。

 

これが、彼女の本来の姿なんだろう。

 

こんな彼女と10年も一緒にいて、手放さなければならなくなって悔しかったに違いない。

 

僕は、そんな「彼」に嫉妬した。

 

彼女が「彼」と過ごした10年という時に嫉妬した。

 

 

 

 

彼女が初めて僕の部屋を訪れた日、ちょうど彼女の誕生日だった。

 

ちょっとしたサプライズのつもりで、ささやかな贈り物をした。

 

交際を始めてまだ日は浅く、アクセサリーなんか贈ったりしたら重いかな、って、彼女が負担に思わないよう、知恵をしぼって選んだ。

 

先日、ショーウィンドウを無心に見つめていた彼女の姿に、ヒントを得た。

 

隠していたクローゼットから出してきたものを見て、彼女の口が「まあ」といった感じに丸く開いた。

 

それから、僕に手渡されたものを膝にのせてしばらくの間、彼女は無言だった。

 

「気に入らなかった?」

 

不安になった僕は、おずおずと尋ねた。

 

「好きなんじゃないかな、って、勝手に想像してしまって...。

外れてたら...ごめん」

 

「いいえ...。

ちょっと、びっくりしたから...。

でも、ありがとう。

嬉しい」

 

確かに、彼女の表情は嬉しそうだった。

 

僕はほんの少しだけ不安だった。

 

もしかしたら、間違ったものを贈ってしまったのではないか、って。

 

 


 

 

~私~

シムさんの名前が、亡くした恋人と同じ名前であることに混乱した。

 

名刺をもらったあの夜、確かに目にしていたはずなのに、印刷された「チャンミン」という名前が頭に入ってこなかった。

 

それほど私は、哀しみの海底に沈んでいたのだ。

 

シムさんとの仲が親密になっていっても、どうしても名前で呼べなかった。

 

口にする度に、チャンミンの記憶がいつになっても薄れていかなくなることが怖かった。

 

同じくらい背が高くて、優しくて。

 

最初は、比べてばかりいた。

 

そのうち、徐々に違うところが見えてきた。

 

全然の別人だった。

 

私の心の中で、永遠に生き続けると固く信じていたのに、次第にチャンミンとの思い出が遠ざかっていった。

 

想いの濃さが薄くなっていったのではない。

 

今でもチャンミンはちゃんと、私の中に息づいている。

 

それとは別に現れたスペースに、シムさんの存在が満ちていったのだ。

 

過去のチャンミンはチャンミンとして存在し、全く別の場所にシムさんが存在している。

 

比べられない。

 

シムさんと初めて食事をしたとき、栄養不足だった私の身体と心が生き返った。

 

幽霊のように生きていた自分の視界が、リアルで色鮮やかなものに変わったのだ。

 

やっと戻ってこられた、と思った。

 

シムさんが私を生き返らせてくれたのだ。

 

そんなシムさんに感謝しながらも、隣を歩く彼のつくる笑顔が気になった。

 

目尻に浮かぶ笑いジワがとっても素敵だったけれど、笑い方を忘れてしまったみたいに、頬や口元がぎこちないものに見えたから。

 

ピンときた。

 

この人も、何か大切な存在を失ったばかりなんだ、って。

 

ぎこちない笑いであっても、本心からのものだと分かっていた。

 

彼の頬をほぐしてやりたい、と思った。

 

 

既婚歴のある人と交際を始めた知人が、苦笑交じりに漏らした台詞を思い出していた。

 

「『死別』はまだいいよ。

諦めがつくから。

辛いのは『離別』よ。

別れた相手が、どこかで暮らしているのよ?

顔を合わせるかもしれないし、ずっと比べられる」

 

とんでもない。

 

『死別』した者ほど強力な存在はない。

 

死んだ者の思い出は時が経つほど美化されるものだから。

 

シムさんの「恋人」が、どんな人だったのか見てみたい。

 

目にすれば、安心する。

 

実体がないのは、想像ばかりが膨らむ。

 

きっと素敵な人だったんだろう。

 

10年も一緒にいただなんて、深い愛情で結ばれていたのだろう。

 

顔もわからないんじゃ、私はずっと彼女の亡霊に嫉妬し続けるしかないじゃないの。

 

 

シムさんの部屋に初めて通された日。

 

彼がお茶の用意をするため台所に立った隙に、私は周囲を見回した。

 

「彼女」の気配が残っているんじゃないか、って。

 

同棲はしていなかった、と言っていた。

 

でも、互いの部屋を行き来していたに決まっている。

 

シムさんが私に手渡したマグカップひとつさえ、「彼女」のものなんじゃないかと疑った。

 

私の固い表情に気づいたシムさんは、苦笑交じりに

 

「『彼女』のものは全て彼女の実家に送ったよ。

だから、ここには『彼女』のものは何もないから」

 

と言った。

 

「......」

 

「君にあげたいものがあるんだ」

 

微笑んでみせたシムさんは、立ち上がってクローゼットを開けた。

 

ポールに引っ掛けた空のハンガーが目に入った。

 

きっと彼女の洋服がかかっていたんだ。

 

「無いこと」が、彼の欠けた心を表しているみたいで、息が詰まる。

 

シムさんがクローゼットから取り出してきたものを見て、再び息が詰まった。

 

動揺した心を悟られないよう、私は無理やり笑顔を作る。

 

ウンベラータの鉢植えだった。

 

シムさんは、私の反応をじっと見守っている。

 

言葉が出てこなくて、ハート型の丸い葉を指先でなぞる。

 

これ以上黙っていたら、シムさんが不安に思う。

 

モンステラやポトス、ユッカなど、ポピュラーなものじゃなく、ウンベラータを選んだセンスに、私は泣き出しそうだった。

 

自宅のベランダに、二つの鉢が並ぶことになるなんて。

 

よりによって、植物だなんて。

 

嬉しいのに...困ってしまった。

 

(後編に続く)

 

 

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