【43】NO?-見られてしまった僕のアレ-

 

~チャンミン~

 

契約書を交わす民ちゃんの隣に、僕は保護者然として座っていた。

 

民ちゃんはリュックサックから厚みのある封筒を取り出すと、その中から契約金を支払った。

 

「向こうでバイトを掛け持ちして貯めたんです。

だから、お洋服を買う余裕がなくて...

チャンミンさんが貸してくれて、助かりました」

 

ふふふっと、恥ずかしそうに笑った。

 

いつも同じ格好をしている民ちゃんのワードローブの乏しさに納得した。

 

でも、1着1着大切に着ている民ちゃん。

 

そっか...民ちゃんはそうまでしてX氏の側に来たかったのか。

 

僕じゃ太刀打ちできないかもしれない、と自信をなくしそうになる。

 

「チャンミンさんのお部屋探し、手伝いますよ?」

 

マンションへの帰り道、僕らはコンビニエンスストアで買ったアイスコーヒーを飲みながら並んで歩く。

(民ちゃんったら、ガムシロップを3個も入れるんだから)

 

しみじみと、まるでデートみたいだと思った。

 

「えー。

民ちゃんじゃ頼りない」

 

汗に濡れる民ちゃんのうなじから目を離せずにいた僕は、慌てて目を反らして民ちゃんの腕を軽く小突いた。

 

「ひどいですね。

いい空気が流れているかいないかは、分かりますから」

 

「じゃあ...来週。

僕の部屋探しに...付き合ってくれる?」

 

「もちろんですよ!」

 

よかった。

 

まるで、デートの約束みたいだ。

 

冷たいコーヒーのミルキィな甘さが、民ちゃんの首筋から漂うミルクみたいな甘い香りと結びついて、僕の胸はやっぱり甘く痺れるのだった。

 

こうして民ちゃんの引っ越しは来週に決まった。

 

次は僕だ。

 


 

僕には未解決のことがある。

 

リアの件だ。

 

別れを受け入れてもらうのを、待たないことに決めた。

 

贅沢なこの部屋を借り続けられるのも、あと1か月が限界だった。

 

先週のうちに、退去の連絡を入れ、引き落とし専用口座に翌月分の家賃の入金を済ませた。

 

リビングで、キッチンでリアと無言ですれ違う。

 

リアはちら、と僕と目を合わせるとすぐに目を反らしてしまう。

 

何かを言いたげなのに何も言わない。

 

僕の方も声をかけられずにいて、我ながら臆病者だと思う。

 

入浴後のバスタオルを巻いたままのリア、下着姿でソファに座ってTVを見ているリア、同じベッドで眠るリア。

 

僕は全然、欲情しない。

 

あれほど愛していたのに、今の僕は早く離れたくて仕方ない。

 

リアへの想いではち切れんばかりだった僕の愛情も、1年をかけてしゅるしゅると抜けていって、今じゃ空っぽだ。

 

その空っぽになったスペースに、いつの間にか別の女性の存在が侵入してきて、もうすぐ満タンだ。

 

リアなしじゃ生きていけないと言い切っていたのが、今じゃこうだもの。

 

人の心なんて頼りにならず、未来がどうなるか分からないものだ。

 

 


 

 

翌日、引っ越し先が決まりもしないうちに、僕は荷造りを開始した。

 

民ちゃんは手伝いを買って出てくれた。

 

僕らは引っ越し業者が置いて行った段ボール箱に、運び出すものを詰めていく。

 

(民ちゃんの荷造りは簡単だ。僕のうちに来た時の5つの段ボール箱が、彼女の持ち物の全てだ)

 

「電子レンジはどっちのです?」

 

同棲した末の別れで一番頭を悩ませるのは、持ち物の線引きだ。

 

「僕、かな。

コーヒーメーカーも僕のだよ」

 

僕のものだけれど...正直、どれもこれも色褪せてしまった感が否めない。

 

荷物なんて全部置いていってしまっても、全然構わなかった。

 

そんなことしたら、リアに迷惑をかけてしまうから、やむを得ず持って出る。

 

一から新しい生活を築きたい。

 

そんな心境だった。

 

「食器は?」

 

「いくつかは棚に残しておいて。

まだしばらくは使うからね」

 

「はーい」

 

民ちゃんは新聞紙でお皿やらグラスやらを手際よく包んでいる。

(お店に勤めていたから、こういう梱包作業は得意なんです、と言っていた)

 

「あの...チャンミンさん」

 

「ん?」

 

「TVとか、冷蔵庫とか...家具はどうするんですか?

半分に割るわけにはいかないでしょう?」

 

リアと資金を出し合って購入したものたちだ。

 

「次の住まいには大き過ぎる。

置いていくつもりだよ」

 

1LDKか2Kあたりの部屋を念頭に置いて、そう答える。

 

家具も家電ももう一度、少しずつ買いそろえればいいことだ。

 

「寝室の方は、私はタッチしない方がいいですよね?」

 

「クローゼットの中はそのままでいいよ。

全部リアのものだ」

 

「はーい。

次はどこを片付けましょうか?」

 

「洗面所をお願いしていい?」

 

「はーい」

 

洗面所へ向かう白い足首が、床にあぐらをかいた僕の前を通り過ぎる。

 

「タオルはどうしましょう?」

 

「うーん...どうしようかなぁ...」

 

2人で使ったタオルを残されてもリアは困るだろうし、恐らくゴミ箱行きになりそうだ。

 

「2、3枚だけ持っていくよ」

 

「はいはーい。

チャンミンさん、この収納棚は備え付けですか?」

 

「ああ。

中身を出さないとね。

化粧品系はリアのものだからね」

 

「了解でーす」

 

僕はTVボード内のDVDやゲームソフトの選別にかかっていた。

 

「ひっ!」

 

「ん?」

 

「......」

 

「民ちゃん?」

 

「......」

 

返事のない民ちゃんに心配になった僕は、洗面所へ顔を出す。

 

「民ちゃん?」

 

開け放ったキャビネットの前で、民ちゃんは手にしたものをじっくりと観察している。

 

(ミミミミミミミンちゃん!!)

 

僕は扉を閉め、民ちゃんの手から問題の物を取り上げた。

 

「チャンミンさんたち...お盛んだったんですねぇ...」

 

つぶやいた民ちゃんは、信じられないといった表情で僕を見る。

 

「何箱も...通販ですか?」

 

(恥ずかしいから口に出さないで!)

 

「使いかけって...生々しいですね」

 

かぁっと顔が熱い。

 

民ちゃんに見られたくないものを見られてしまった。

 

「こういうものって、ベッドの側に置いておくものじゃないですか?」

 

ゴミ袋に全部突っ込むのを見た民ちゃんったら、とんでもないことを言い出すんだから。

 

「あれ?

持っていかないんですか?

勿体ないですね」

 

「持っていくわけないだろう!」

 

僕の大声にひるんだ民ちゃんに、僕は「ごめん」と言って彼女の頭を撫ぜた。

 

リアとの暮らしの名残は、全部捨てていく。

 

夕方には、現段階で詰められるものは全部、箱に詰め終えた。

 

「チャンミンさんって...少ないんですねぇ」

 

リビングの片隅に積み上げられた段ボールの数に、民ちゃんは感心している。

 

引っ越し業者に依頼せずとも、レンタカーで運んでしまえそうな数だった。

 

「そうかな?」

 

家具や家電はそのままだったから、ぱっと見には片付いた感はしないけど、引き出しの中にはもう、僕のものは入っていない。

 

晴れ晴れとした気持ちの一方、寂寥感のようなものを拭えずにいた。

 

どんな形であれ、恋の終わりは心がすうすうとして、とても辛い。

 

「民ちゃんのおかげで早く済んだよ、ありがとう。

夕飯を御馳走するよ。

何か食べたいものはある?」

 

「出前のピザが食べたいです。

フライドチキンを付けてください」

 

宅配ピザのメニューを楽しそうに眺める民ちゃんに口元がほころんでしまうが、心の半分はリアのことを考えていた。

 

リアは次の部屋を見つけられるのだろうか、引っ越し費用は用意できるのだろうか...と心配だった。

 

リアに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだったんだ。

 

僕にできることは手伝ってやろう、と。

 

こういう中途半端な優しさが僕のいけないところだってことは、分かってはいるんだけど。

 

 


 

 

~リア~

 

先ほどから白いプラスティック製のものを凝視していた。

 

判定窓にピンクのラインが出るか、出ないか。

 

「はぁ...」

 

深いため息をついたリアは、それを箱に戻しかけ、ふっと頭に浮かんだ思いつきからその手を止めた。

 

午前10時。

 

チャンミンも民も仕事へ行って、この部屋にはリアだけだった。

 

手にした小箱を洗面台の脇に置いたリアは、洗面所の照明を消した。

 

 


 

 

~ユン~

 

週が明けて、民が出勤してきた。

 

依頼されていた作品制作も佳境を迎えていた俺は、階下の掃除機の音が止むのを待って、民を大声で呼ぶ。

 

「はい!」

 

元気のよい返事の後、次なるミューズが螺旋階段を上がってきた。

 

髪色がブラウンに、ウェーブがかった前髪がさらさらのストレートになっていて、印象ががらりと違っていた。

 

片側は眉が見えるくらい短く、反対側は目を覆うほど長くアシメトリな前髪だ。

 

洗いざらしのTシャツみたいに飾りっ気のない素朴な姿、女のようにワンピースを着てかしこまった姿、そしてコンテストのステージで見せた未来的なメイクを施した姿。

 

この子は実に、様々な顔を見せてくれる。

 

次は、俺の手でどんな色に染めてやろうか。

 

今日の民の姿を見て、ますます楽しみになってきた。

 

「袖をまくってくれないか?」

 

作業中の俺の手はペースト状の粘土で汚れており、肘からずり落ちた袖口を顎で指した。

 

「はい!」

 

民の細くて長い指が、俺のシャツを慎重に折りたたんでいく。

 

民の指先が腕に触れる度、柄にもなくぞくりとした。

 

顔同士の距離がぐんと近づいたから、意地悪をしたくなった俺は民の方へ顔を寄せてみた。

 

産毛が見えるくらい近くに。

 

民の肌から漂う甘い体臭をすっと吸い込んだ。

 

「あ!」

 

俺の吐息がかかって顔を上げた民は、至近距離に俺の顔があることに気付いたようだ。

 

瞬時に赤面するから、その初心さが可愛くて仕方がない。

 

「えっと...あの...できました...。

下に戻ってもいい...ですか?」

 

おずおずと尋ねる民を、俺は眼力をこめて見つめた。

 

「行かなくていい。

今から、始めようか?」

 

「えっと...。

やっぱり...その...モデルは...」

 

民は俯くと、もじもじとシャツの裾を白くて細い指でいじっている。

 

「たった今、インスピレーションが湧いたのに。

ああ!

早くしないと、イメージが逃げていってしまう!」

 

敢えて大きな声を出し、ふざけて身悶えして見せると、まんまと引っかかった民が慌てだした。

 

「ごめんなさい!

分かりました!

やります!

やりますから!」

 

「ありがとう」

 

俺は微笑むと、粘土にまみれた手で民の手をとった。

 

粘土で汚れてしまった民の手。

 

男の手にしては小さく、華奢な手だ。

 

長いまつ毛に縁どられた、民の大きな瞳がみずみずしく揺れている。

 

不安半分、期待半分のはざまで。

 

「それじゃあ、着がえようか」

 

奥の部屋へ行くよう、民を促した。

 

 

僕の名前で君を呼ぶ    HUG

TOP