(45)TIME

 

「ありがとう」

チャンミンは、持参してきた水筒から熱いコーヒーをカップに注いでタキに手渡す。

「用意がいいね」

「ここのコーヒーは、美味しくないので」

チャンミンは、先日シヅクが淹れたいたずらコーヒーのことを思い出していた。

「言えてるね」

電源を入れていない電子タバコを、片手でもてあそびながら、タキは笑った。

「始終止めろって言われてるんだけどね」

タキは、チャンミンの視線の先に気付いて言う。

「知ってるかい?」

「はい?」

「この建物は古いだろ?

元は何に使われていたか、知ってるかい?」

「いえ」

チャンミンは仕事を円滑に進めるためにする調べものへの努力は惜しまないが、仕事場の来歴については興味の対象外だった。

「スポーツ試合やイベントがこの場所で開かれていたんだよ。

それを見るために、何万人もの人がこの場所に集まったんだそうだ」

カイは目を細めて、美味しそうにタバコを吸っている。

「そうなんですか」

チャンミンには、ひとつの大空間にびっしりと人が集まっている様子を、想像できない。

「信じられないよな」

 

(100年前か...自分のことさえ曖昧なのに、100年なんて気が遠くなる)

チャンミンは冷めてしまったコーヒーを飲みながら、地面に投げ出したスニーカーのかかとで、砂利を転がしながら思う。

(僕には今しかない)

「体調はどう?」

「大丈夫です」

「大変だな」

「なんとかやってます」

(大人な人だ。

落ち着いている)

チャンミンは、隣に座るタキの精悍で冷静沈着な横顔を、気づかれないよううかがっていた。

(僕も、こんな大人な男になれるだろうか。

無関心ゆえの冷静さではなく、達観したうえでの悠然さでいたい)

「来週、イベントがあるのを聞いてるかい?」

「いえ」

「毎年ここで、ちょっとしたパーティをスタッフでするんだ」

「パーティ?」

「今年は2か月遅れで開催するから...去年のパーティの時は...君はまだいなかったね」

チャンミンは、この植物園に勤めるようになった1年前を思い返す。

(どういうきっかけで、ここで働くようになったんだっけ?

それまでは違うところにいたんだった。

どうしてここに就職することにしたんだっけ?)

案の定、視界が揺れ始めたため、チャンミンは思考をストップさせた。

「大丈夫かい?」

下を向いて深呼吸をするチャンミンの肩を、タキは叩いた。

「すみません」

「得がたい経験ができるよ」

「そうなんですか?」

「ははは。

ミーナとカイ君が中心となって準備してくれるよ」

タキは立ちあがり、ズボンをはたく。

「そろそろ休憩終わりだな。

そうだチャンミン、水の出が悪いそうだ」

「え?」

「スタンドの方。

あそこは高さがあるからな、水圧が弱いんだ」

「見てみます」

チャンミンも立ち上がり、バッグを背負うと管理棟へ向かって歩き出した。

 


 

「お疲れ~」

「お疲れ様」

終業後、シヅクはエントランスのドアの前に立っていた。

次々と退社するスタッフたちに挨拶しながら、彼女には待っている人がいた。

(あいつ遅いな。

いつもなら真っ先に帰るやつなのに)

18時00分。

(遅い)

 

管理棟内は静まりかえり、外は真っ暗だ。

暖房のきいてないホールは冷え冷えとしていて、吐く息は白い。

(寒い...)

顎までうずめたマフラーから漂う爽やかな香りから、チャンミンを感じる。

(今日のチャンミンは変だった

一昨日の夜の電話といい、今朝の仏頂面といいイラついている。

ランチの時も、廊下ですれ違った時も、無視しやがって!)

すれ違いになるのを恐れてエントランスで待っていたが、すっかり身体が冷え切ってしまった。

シヅクは暖房のきいた事務所で待つことにした。

「チャンミンよ、ちょっと失礼するよ」

チャンミンのロッカーの扉を開けてみると、彼のパックはある。

(帰ってない...どこにいるんだ、あいつ。

残業なんかする奴じゃないし...

熱を出したチャンミンは、ここに寝てたんだったな)

シヅクは10日前の夜を思い出しながら、事務所の隅に置かれたソファに横になった。

(お散歩でもしてるんかな。

昼間さんざん歩きまわってるのに、わざわざ散歩なんかしないか...。

...ん?)

​ひじ掛けにのせてぷらぷらと揺らしていたブーツの動きを止める。

(まさか!)

シヅクはがばっと飛び起きる。

(まさか...!

チャンミン...!)

チャンミンがハウスの中で、うつぶせで倒れている姿がシヅクの脳裏に浮かぶ。

(大変だ!)

シヅクは事務所を飛び出し、ドームに向かって廊下を駆ける。

「チャンミーン!」

(大変だ!)

「チャンミーン!」

彼の名前を大声で呼びながら、回廊を走る。

「チャンミーン!」

白目をむいて血を流すチャンミンを想像する。

(頼む!

 

チャンミン!

 

生きていてくれ!)

 

フィールドを突っ切りながら、ハウスを1棟1棟中をのぞいて確認していく。

「いないじゃんか!」

 

シヅクは、最後のハウスの扉を叩きつけるように閉める。

 

「チャンミーン!

かくれんぼしてんじゃねーぞ!」

(あいつの担当してるところは、他にどこだっけ?)

「暑い!」

シヅクの額からは汗が流れ、駆けまわったせいで着ているコートが暑い。

 

(思いつくところは......あそこだ!)

 

肩に食い込むほど重いバッグを放り出し、コートを脱ぎ捨てると、シヅクは再び走りだした。

「チャンミーン!」

(シヅクさんに心配かけさせやがって!)

 

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