53.僕の気持ち-TIME第2章-

 

 

滅多に湯船に湯を張ることなどないシヅクだったが、今夜はそうも言っていられない。

 

身体の芯まで冷え切って、ぞくぞくとした震えがガチガチと歯を鳴らす。

 

浴室は白い湯気でいっぱいで、熱いお湯を蛇口から細く出しっぱなしにして、顎まで浸かって全身を温めた。

 

「いたたた」

 

シヅクはこわばったふくらはぎを、両手でもみほぐした。

 

右脚の足首をつかむと、軽くひねった。

 

きつく締め付けていた箇所に、お湯が流れ込んでシヅクは深く息を吐いた。

 

両手の中のシリコン製のものを、じっと見つめる。

 

(冷えはやっぱりよくないな...ポンプ室では、冷たいどころか痛くて辛かった)

 

足先の血行がよくなるよう、両手でさすった。

 

シヅクは、湯船の淵に置いた「足」を見つめた。

 

(この義足はよく出来ている。

 

自由に歩けるし、走ることもできる。

 

周囲も全然気づかないし、私自身も違和感がない。

 

でも、冷えるのはいかんなぁ。

 

義足生活も20年かぁ...再建手術を受けてもいいんだけどなぁ)

 

シズクは縁に後頭部をもたせかけ、白い湯気に煙る天井を見上げてひとりごちた。

 

「はっくしょん!」

 

(熱があるかもしれん...そうなっても仕方ないよなぁ...)

 

熱いお湯の中にいるのに、ぞくぞく震えが止まらない。

 

(チャンミンは大丈夫かなぁ...)

 

湯船から立ち上がると、バスタオルを身体に巻き付け、片足けんけんの要領で寝室に向かった。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

相乗りしたタクシーがシヅクのマンションに停まった。

 

 

「ひとりで大丈夫?

部屋の前まで送るよ」

 

とシヅクと一緒にタクシーを降りたが、

 

「大丈夫だから。

あんたこそ、早く家に帰りな」

 

と、シヅクに無理やりタクシーに戻されてしまった。

 

火傷がしそうに熱いシャワーを浴びて、十分温まった僕は、分厚いスウェットの上下を着た。

 

濡れた洋服は、洗濯後、乾燥機の中で回っている。

 

ベッドのヘッドレストにもたれかかり、毛布にくるまった。

 

熱いお茶と、ブランデーを交互に口に運びながら、今日一日のことをふり返る。

 

シヅクに断られても、彼女の部屋まで見送った方がよかったのかもしれない。

 

しまった!

 

何か温まるものを買って、シヅクに渡せばよかった。

 

10日程前から、僕は就寝前にその日1日、自分が言ったこと、やったことをひとつひとつ確認するのが日課になっていた。

 

何か間違ったことを口にしていなかったか。

 

自分はどんな行動をとったか。

 

相手は、どう反応したか、そしてどんなことを自分に言ったか。

 

それに対して、自分はどう思ったか、どう感じたか。

 

僕の頭を占めるのは、シヅクのことばかりだ。

 

シヅクは僕のことを、どんな奴だと思っているんだろう?

 

僕はタブレットを膝に置き、しばらくスクロールをした後、目的のものを見つけてタップした。

 

ディスプレイの中で、二人の男女が笑ったり、泣いたり、身を寄せ合ったりしている。

 

女性役が何かを喋って、男性役がそれに答えて。

 

女性役が目を伏せて、首を振っている。

 

男性役が彼女の頭を引き寄せて、囁いた。

 

『好きだよ』と囁いた。

 

 

「すきだ...。

 

すき...?

 

すき...」

 

僕は何度も、この言葉に唇にのせてつぶやいた。

 

タブレットを膝から下ろして、僕は顔を覆った。

 

「すき」

 

手の平に、「すき」と紡ぐ僕の唇が触れる。

 

シヅクは僕のことを、どう思ってる?

 

僕は、シヅクのことばかり考えている。

 

ディスプレイから放たれる光が瞬いて、シーツをパカパカと照らす。

 

僕はシヅクのことを、どう思ってる?

 

じっとしていられなくて、勢いよく毛布を跳ねのけてベッドを出た。

 

運転終了を知らせる乾燥機のアラーム音が聞こえた。

 

シヅクは...震えていた。

 

真っ青な顔をして、震えていた。

 

僕が熱を出して震えていた時、シヅクは僕のことをうんと心配してくれた。

 

マフラーを僕の首に巻いてくれた。

 

温かかった...。

 

僕はスウェットを脱いで、クローゼットから黒いニットと黒いパンツをとって身につけた。

 

鏡をちらっとみたら、あちこち毛先がはねているけれど、別にいいや。

 

コートを羽織って、靴を履いた。

 

 

僕は、シヅクのことをどう思ってる?

 

 

シヅクを部屋まで送らず帰ってきてしまった。

 

シヅクが僕に「早く帰れ」と言ったから。

 

でも本当は、

 

僕はどうしたかった?

 

僕は...僕は、もっとシヅクの側にいたかった

 

シヅクが風邪をひいたりしたら、いけない。

 

シヅクのことが心配だった。

 

 

 

僕はシヅクのことを、どう思っている?

 

 

 

 

 

僕は、シヅクのことが、好きだ。

 

 


 

 

チャンミンは薬局に飛び込んだ。

 

(何をもっていってあげたらいいかな)

 

腕にかけた買い物かごに、ココアの箱、ポテトチップス、マシュマロ、チョコレート。

 

(これじゃあ、シヅクを子供扱いしてるみたいだ!

 

のど飴、冷却シート、解熱剤...お腹を壊しているかもしれないから胃腸薬も。

 

シヅクが欲しがるものってなんだろ?)

 

シヅクの持ち物や、話し方、着ている洋服、雰囲気から、チャンミンは必死に想像力を働かせた。

 

(青りんご味の歯磨き粉?

...へぇ、面白そうだな)

 

 

「あっ!」

 

チャンミンが後ずさった時、背後で小さな悲鳴が上がった。

 

「ああ!

すみません!」

 

チャンミンの背中に押されてよろけたその女性の腕を、素早くつかんで支えた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「え、ええ」

 

その女性は腕を支えるチャンミンを見上げると、ハッとするように目を見開いた。

 

あまりにまじまじと彼女が見つめてくるので、居心地が悪くなったチャンミンは、自分が女性の腕をつかんだままだった手を離した。

 

「すみません。

......えっと...何か?」

 

肩までの髪、少したれ目の優しそうな目元、低めの身長、淡い水色のコート。

 

「覚えていませんか?」

 

女性の指が、商品棚に並ぶボトルのひとつを指さした。

 

「ああ!

あの時の」

 

数日前、どの洗剤を選んだらいいか迷っていたチャンミンは、この女性からアドバイスをもらっていた。

 

「あの時は、助かりました」

 

チャンミンは照れたように微笑して、女性に軽く会釈した。

 

「このお店には、よく買い物に来られるんですか?」

 

女性はそう質問しながらも、チャンミンを観察する視線を注いだままだ。

 

(ずいぶんと僕のことを、じろじろ見るんだな)

 

再び居心地悪くなったチャンミン。

 

(世間話とか、雑談とか...苦手なんだよ)

 

「職場が近くなんです。

ネットじゃ間に合わないものが欲しい時に、便利なので」

 

話を切り上げてその場を去ろうとしたチャンミンを、女性は呼び止めた。

 

「あの!」

 

「はい?」

 

不機嫌な表情を消してチャンミンはふり返った。

 

(僕は早くシヅクのところに行きたいんだ)

 

「あなたのお名前は?」

 

「?」

 

(名前?)

 

 

「変なことを聞いてごめんなさい。

びっくりしますよね」

 

(びっくりするに決まってるだろ。

急に名前を聞かれるなんて)

 

チャンミンは、こちらの心の準備ができる前に、唐突に距離を縮めてくる者が苦手だった。

 

チャンミンには、親しい者(現在はシヅク)とそれ以外の者しかいない。

 

それ以外の者には、できれば遠くにいて欲しい。

 

女性の顔は真っ赤になっている。

 

「本当にごめんなさい。

忘れてください」

 

頭を何度も下げる女性を見て、チャンミンの方が申し訳ない気持ちになってきた。

 

 

(勿体ぶるつもりこれっぽっちもない。

名前くらい、どうってことないし)

 

「チャンミンです。

僕の名前は、チャンミンです」

 

チャンミンの言葉を聞いて、女性は片手を口で覆い、チャンミンを見つめる目がますます見開いた。

 

何をそんなに驚くことがあるんだろうと、チャンミンは不愉快になってきた。

 

(人の名前を聞く前に、先に名乗るのが礼儀だろう?)

 

チャンミンは、女性の返事を待った。

 

「ごめんなさい!

私は、キリと申します。

この薬局の上に住んでいます。

ここは2階から上がマンションになっているんです」

 

「はあ、そうですか...」

 

(キリとかいう人が、どこに住んでいるかなんて、別に知りたくもない)

 

キリは頬にかかった髪を耳にかけると、チャンミンの買い物カゴをちらっと見た。

 

「マスカット味のマウスウォッシュも、おすすめですよ」

 

「はあ」

 

(意味が分からない。

素直に従っておけば、角が立たないだろう)

 

キリにすすめられるまま、そのマウスウォッシュのボトルをカゴに入れ、精算をするためレジに向かった。

 

「あの!」

 

また呼び止められて、チャンミンは今度は不機嫌さを隠さずふり返った。

 

(今度は何だよ?)

 

「何か?」

 

「チャンミンさんは、もしかして...

XX高校の卒業生ですか?」

 

「XX高校...?」

 

チャンミンは立ち止まって、意識を過去へ巡らせようとしたが、

 

(いけない!)

 

眩暈がしそうで、チャンミンは慌てて目をつむった。

 

「いいえ、違います」

 

固い声で答えると、てきぱきと精算を済ませて大股で、早足で店を出ていった。

 

そんなチャンミンの後ろ姿を、キリがくいいるように見つめ続けていたことも、彼女の目が充血していたことも、チャンミンは気付いていなかった。

 

 

 

(違います、ととっさに答えたけれど、

 

正確に言うと、

 

『覚えていない』んだ。

 

高校?

 

僕にも学生だった時代があったに違いないけれど、

 

あまりにも薄ぼんやりと生きてきたからか、印象に残るような出来事を覚えていない。

 

思い出そうとしても、濃い霧の中をさ迷うかのように、右も左も分からなくなって、立っているのか座っているのかも分からなくなって、眩暈がする。

 

頭痛に悩まされているのも、僕の頭に、どこか異常があるせいなのかもしれない)

 

 

 

チャンミンは立ち止まった

 

 

 

(僕の頭は、何かしら問題を抱えている。

 

頭が痛いのもそのせいだ。

 

過去のことを思い出せない。

 

高校生だった頃のことはおろか、1年前のこともあいまいだ。

 

もしかしたら、

 

思い出せないのではなく、

 

少しずつ、忘れていっているのかもしれない。

 

僕の過去が、少しずつ損なわれていっているのかもしれない)

 

チャンミンは白い息を吐くと、シヅクの住むマンションを見上げた。

 

 

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