~ユノ~
時刻は既に、18:00。
そろそろ彼女の元へ戻らないといけない。
彼女は、何も知らない。
当時、同棲していた子とは5年前に別れた。
チャンミンと秘密の逢瀬を重ねていた俺は、その子をずっと裏切っていた訳だ。
罪の意識からじゃない。
チャンミンに捨てられた喪失感で、何もかもがどうでもよくなってしまったのだ。
俺も酷い男だ。
チャンミン、ごめん。
俺は今になって、知ったよ。
あの日のチャンミンの気持ちが、今の俺なら分かる。
セフレみたいな関係を優先させて、常識的でまっとうなレールを外すことの怖さを。
時間をかけて築き上げたものを、たった1日でご破算した後のごたごたを想像すると...ぞっとする。
チャンミンだけを責められない。
俺も悪い。
5年前のあの日、あの夜。
俺はチャンミンをベッドに残して、去った。
チャンミンは泣いていた。
俺と彼女を天秤にかけられなかったチャンミン。
途方にくれた弱い男。
結婚前夜。
自身を取り巻く事柄によって、本当に欲しいものは何なのか見失っていたチャンミン。
「泣くほど別れが辛いのなら、俺を選べ。
面倒なことに巻き込まれることが怖いのなら、それを理由に俺を手放すのは止めろ。
俺を選べ。
俺もチャンミンを選ぶ」
口に出せなかった台詞。
何が欲しいのか分からず、彷徨っていたチャンミンを見放した。
欲しいものが何なのか、当時の俺ははっきりと分かっていたのに。
チャンミンを導かなかった俺。
自分だけ傷ついた顔した俺の方が、ずっと悪い。
下着も身につけず、薄汚い床にチャンミンはへたりこんだままだった。
今の俺は、何が欲しいのか分からない。
~チャンミン~
僕に背を向けて、ユノは無言で着替えを済ませた。
広い背中。
僕はしみだらけのカーペット敷きの上に、ぺたりと座り込んだままだった。
ユノは濃いグリーンのトレンチコートを羽織ると、僕の前でひざまずいた。
「じゃあ、な」
ユノの大きな手が、僕の頭をくしゃりで撫ぜた。
ユノの優しくて温かい手。
僕は項垂れた頭が、ユノの手の下でぐらぐら揺れた。
「チャンミン。
さあ、服を着ろ」
腕を引っ張られた僕は、足に力が入らずよろめいて、ユノに支えられた。
僕をベッドに腰掛けさせると、ユノは床に散らばった僕の衣服を拾い集めた。
「駅まで、送るよ」
僕はぶんぶん首を横に振る。
「一人で...大丈夫か?」
「......」
ひざまづいたユノの顔が近い。
心配そうに僕を覗き込むユノの漆黒の瞳が、優しい。
「っ...っ...うっ...」
ぼろぼろとこぼれる涙に、ユノは枕元からティッシュペーパーをとって、拭ってくれる。
「チャンミン...」
ユノは呆れた、といった風のため息をつく。
「そんなんじゃ、心配で置いていけないよ。
...困ったな」
とぼやくようにユノは言って、僕の隣に腰掛けた。
「大丈夫だな?」
「......」
今を逃したら後はない、と思った。
失うものが何もなくなった僕の思考は、クリアでシンプルだ。
僕が心の奥底から欲しいものは、ただ一つ。
「帰らないと。
悪いな。
じゃあ、俺はもう行くよ」
ユノは立ち上がった。
「行くな!」
びりびりと部屋に響くほどの大声だった。
ユノは、ゆっくりと振り向いた。
「ユノ!
行くな!!」
僕は両腕を伸ばして、ユノの腰にしがみついた。
行かせてたまるかと、腕をからめた。
「...チャンミン...?」
「ユノが嫌だと言っても、
僕は離れないからな!」
5年前、部屋を出て行くユノを僕は追いかけなかった。
今の僕は、引きずられようと引きはがされようと、何がなんでも手離す気はない。
どこまでもみっともない男になってやる!
「行くな!」
ユノの手が僕の腕にかかる。
でも、ふりほどかれなくて、僕は嬉しかった。
「...チャンミン...?」
「ユノ!
結婚するのは止めろ!」
「でも...今さら...」
「僕を選んでよ!」
「...チャンミン...」
「ユノはきっと...っく...後悔するよ。
僕を選ばないと、ユノは絶対に後悔する!」
「チャンミン...」
「僕を選べ!」
30を過ぎた男が、涙でぐちゃぐちゃにさせて泣きじゃくっている。
「...ユノ...僕を置いていくな!」
~ユノ~
俺の腰にむしゃぶりついてきたチャンミン。
見下ろした先のチャンミンの尻に、俺は思わず目を反らした。
「泣くな。
チャンミン...泣くな」
チャンミンの腕の力は凄まじい。
「...僕を選べ」
チャンミンは同じ言葉を繰り返した。
俺の腿の生地を、チャンミンの温かい涙が濡らしていく。
俺はどうすればいい?
チャンミンを振り切って出ていくべきか...それとも、肩を抱くべきか?
正解が分からない。
馬鹿か、俺は。
今さら、正しいも間違っているもないだろう。
俺もチャンミンも、彼女たちを裏切り続けた最低な男なんだから。
「分かった。
分かったから」
俺はそろりと腰を落として、嗚咽に合わせて震えるチャンミンの肩を抱いた。
「分かったから...泣くな」
俺は一体、「何が分かった」というんだ?
チャンミンの言葉は、全くの予想外だった。
俺の醒めた心、冷えて凝り固まった心に受けた衝撃は、あまりにも大きかった。
結婚前夜、幸せの絶頂にいるはずの俺。
正直に言う。
今の俺は、幸せなのか不幸なのかもわからない。
俺の目の前に天秤があるが、左右どちらの皿も空っぽだ。
「何が欲しいか分からなくなってしまった」ことにしておけば、右にも左にも傾くことはない。
それは一種の防衛反応で、5年前の出来事のように傷つくのは御免だったからだ。
ところが、チャンミンの一言に揺さぶられ、目の前の天秤がかき消えた。
まさか、そんな言葉がチャンミンから飛び出してくるなんて。
何が「わかった」と言うんだ?
チャンミンの心か?
俺にしがみついて「行くな」と懇願するチャンミンの気持ちなんて、痛いくらいに伝わっている。
はた目には哀れな姿だが、哀れだとは決して思わなかった。
思い出せ。
「脱げ」と命じた時、驚きで見開いたチャンミンの哀しみと怯えが混じった目。
苦痛をこらえて歪んだ唇。
チャンミンは俺を欲している。
ところが、チャンミンは俺に抱かれるために、結婚前夜というバッドタイミングに現れたのではないのだ。
そのことに気付いていたのに、俺はチャンミンに責めの言葉を吐き続けた。
苦痛しか生まないセックスをした。
5年間ずっと欲していたはずの、チャンミンの弁解と謝罪を注がれても、慰められなかった。
チャンミンは俺に伝えたいことがあって、恥を承知で結婚前夜に現れた。
俺は、責めと咎めの言葉で、チャンミンを怯ませた。
聞きたいけれど、一度耳にしてしまったら、確実に不快な思いをすると分かっていたから。
俺が「わかった」こと。
「ずっとずっと、苦しかった。
チャンミンがいなくて、とても苦しかった。
チャンミンが恋しかった」と言いたかったんじゃないのか?
理解ある大人の男を装って、チャンミンの前から去った俺。
俺も彼女も選べなかった5年前のチャンミン。
5年ぶりのチャンミンに、激しく心を揺さぶられた俺。
よりによって、結婚前夜。
俺が「決めたこと」。
俺はもっと、酷い男になるよ。
先ほどチャンミンに言い放った台詞を思い出せ。
「俺はセフレとか不倫とか、まっぴらごめんなんだ」
どういう意味か、分かるだろう?
(つづく)
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