俺とチャンミンは第二外国語にドイツ語を選択していた。
講義開始5分前に席について、バックパックから教科書や筆記用具を取り出す。
追試ほど時間を無駄にするものはないと考えているから、サボる学生が多い中、俺は遅刻も欠席もせず真面目に受けていた。
(しまった!)
辞書を忘れてきていた。
家を出る30分前まで彼女といちゃついていて、慌てて部屋を飛び出してきたせいだ。
「ここ、いいですか?」
俺の返事を待たずに、隣に誰かが座る。
根暗系、全身黒づくめ、長身の男。
こいつがチャンミンだ。
机に置かれたバッグを見つめる俺の視線に気づいたチャンミンは、反対側に置いた俺のバッグを見る。
「お揃いですね。
ここのバッグ、かっこいいですよね」
シンプルながらも、部分的に箔を使ったデザインで、あまりポピュラーじゃないブランドのものを知っていることが新鮮だった。
1クラス200人はいたことと、入学してまだ2か月だったこともあって、チャンミンと言葉を交わしたのがこの時が初めてだった。
「宿題...やった?」
講師が壇上に立ち講義が始まり、俺はヒソヒソ声でチャンミンに声をかけた。
「はい」
「写させて」
「いいですよ」
チャンミンはすっと俺の方にノートを滑らし、それを受け取った俺は「ありがとう」と大急ぎで写し始めた。
「あの...」
カリカリとペンを走らせる俺の肩を、チャンミンが突いてきた。
「ん?」
「出席カード...余分に持ってますか?」
「あるよ」
この必須科目は出欠に厳しいことで有名で、出席カードを受け取ってから席につく。
受講後に記名したカードを提出してはじめて出席扱いになり、ご丁寧に講義ごとにカードの色が違う。
俺はこの辺りは要領よく、ほぼ全色コンプリートして、いざという時のために余分にもらっていたのだ。
「受け取るのを忘れてしまって...。
助かりました」
ちらりと俺を見て、チャンミンはホッとした笑みを浮かべた。
先ほどまでの固い表情が、一気にくつろいだものになった。
「...なぁ」
「何ですか?」
「すごいな」
辞書の中身を俺が指さすと、
「ああ!
それは...」
『そこ!』
ヒソヒソ喋る俺たちは講師に注意されてしまった。
・
講義の後、教室を出た俺たちは連れ立ってカフェテリアへ足を運んでいた。
「お前の辞書、すごいな」
「試験に落ちたくありませんからね」
「すごいな...。
教科書も参考書がいらないレベルだよ」
「辞書は持ち込みOKでしょ」
「そうだからって...さ」
ドイツ語は4講義ごとにミニ試験がある、わりと厳しめの科目でもあった。
ドイツ語の辞書を開いて俺がたまげたのは、付箋とマーカーだらけ、さらにページの余白にびっしりとの手書きの文字。
チャンミンは講師の言葉や教科書の文章のすべてを、辞書の中に詰め込んでいたのだ。
「試験は教科書の内容がまんま出題されるでしょ。
必要最低限の努力で、Aをとるにはこの方法が最適なのです」
「じゃあ、余った時間は何してるんだ?」
「これといってやりたいことがないのですよねぇ」
「努力を節約する意味ないじゃん」
呆れながらも、チャンミンの少しズレたところに魅力を感じた俺だった。
この一件は「ドイツ語事件」と名付けて、俺がチャンミンをからかうネタになった。
ここまで会話を交わしてから、俺たちは名乗り合った。
「これで君の名前と顔が一致しました。
いつも女子と一緒にいますよね。
珍しいですね、今日は一緒にいませんね」
チャンミンはキョロキョロ見回した。
「俺の部屋に多分、今もいるはず」
「うわー、いやらしいですね。
あ...」
急にチャンミンは立ち止まった。
チャンミンの視線は、研究棟から出てきた白衣の人物にくぎ付けになっている。
建物の前に停めてあった自転車にまたがったその人物は、チャンミンに気付いて「やあ」と声をかけると、俺たちの前を通り過ぎ裏門を出て行ってしまった。
「院生?」
「いいえ、5年生です」
チャンミンの片手は、さっきの彼に手を振ったポーズのままだった。
「好きな奴?」
「はい」
「男...」
「そうです」
「男!?」
「はい。
僕の恋愛対象は、男性です」
さらりと素直に認めるチャンミンの横顔を、再び新鮮な思いで見つめてしまった。
「向こうは?」
「全然。
僕が一方的に好きなだけです。
サークルが一緒です」
白衣の彼の姿が消えるまで見送るチャンミンの表情は、うっとりと甘い。
この時、チャンミンをからかう気持ちは微塵も湧かなかった。
ここまで恍惚とした表情をさせる白衣の彼のことが、少しだけ羨ましかった。
・
全く...。
チャンミンは全く気付いていない。
いい加減に気付けよ。
チャンミンのことが好きな俺の気持ちを。
いつの間にか、チャンミンに惹かれていた俺。
気付かなくて、当然か。
いつも相手の方から求められて、まんざらでもない相手だったら交際してきた俺だったから。
自分の方から求めたことがない俺だったから。
口をつぐんだ俺の気持ちが、チャンミンに伝わらなくて当然なんだ。
(つづく)
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