湯たんぽを抱えた俺は、天井の低い、薄暗い廊下を走っていた。
ここは地下1階の、使用人たちの私室が並ぶエリアで、本来なら俺が居てはいけないところだ。
味もそっけもない金属製のドアを開けると、そこはベッドと机、本棚があるきりの狭い部屋。
これまた、味もそっけもないベッドで、長細く掛け布団が膨らんでいる。
「チャンミン!」
俺は枕元に膝立ちして、枕に片頬を埋めた綺麗な顔を覗き込んだ。
「ユユユユユノ...」
カチカチと歯が鳴って、言葉になっていない。
「あったかいぞ。
これを抱っこしていな」
俺はチャンミンの布団をめくって、湯たんぽを入れてやる。
「す、すすすすみ、ませ...ん」
茹でだこのように真っ赤な顔をして、チャンミンは力ないほほ笑みを見せた。
とても苦しいだろうに。
チャンミンはアンドロイドなのに、人間みたいに熱を出して震えることもできるのだ。
せっかくアンドロイドなんだから、もっと頑丈に、暑さ寒さなんてへっちゃらに作ってもらえばよかったのに。
チャンミンは強いけど、弱い部分もいっぱいある。
「みみみみ、みみを...どうか...しました、か?」
チャンミンは俺の心配をしてばかりだ。
自分の方がよっぽど、辛いのに。
「ちょっと怪我をしただけさ、平気だよ」
顔を曇らせたチャンミンを安心させようと、ニカッと笑って見せた。
強がってみせることを、覚え始めた俺だった。
誕生日プレゼントだと言って、母さんからピアスを贈られた。
押さえつけられて、母さんの手によって両耳たぶに穴を開けられた。
待女Tさんが消毒をしてくれたけど、耳たぶを飾る石をニットでひっかけるとか、ちょっとした刺激で血がにじんでしまうのだ。
「ユユユ...ノ...かわ...いそ...に...」
「チャンミン!
飲まなきゃ駄目だぞ!」
枕元に置いたグラスのジュースが減っていなかった。
おやつの時間に出されたジュースを、俺はこっそりチャンミンの元に運んだのだ。
頭を起こせないくらいに、チャンミンは具合が悪いんだ。
チャンミンのおでこと耳の下に、手をあてると燃えるように熱い。
こんなに熱いと、チャンミンのコンピューターが壊れてしまうんじゃないかと、不安だった。
「ユユ...ノの手...きき、ももちち...ぃ」
「チャンミンは黙ってて」
かつて、風邪をひいた俺を看病してくれたチャンミンの行為を、ひとつひとつ思い出す。
おでこを冷やすんだ。
俺が絞ったタオルから雫が垂れて、チャンミンの前髪を濡らしていた。
子供の力で絞ったものだから仕方がない、か。
それから、水分をとらせないと。
熱が出ると身体の水分が沢山失われてしまうから、ってチャンミンに教えてもらった。
コップをそろそろと傾けて、チャンミンの唇の隙間から中身を流し込もうとしたら、どっと注いでしまい、チャンミンがむせてしまった。
ゲホゲホと咳をするチャンミンの背中が、弓なりに痙攣した。
余計にチャンミンを苦しめてしまった。
上手に看病できない自分が情けなかった。
「ごめんね、ごめんね」
チャンミンの薄茶色の瞳が、ギラギラと光っていた。
瞳の表面を膨らんだ涙が覆っていて、泣いているみたいに見えた。
チャンミンは身体が辛くて辛くて仕方がないんだ。
「ユユ...ノ...。
くつ...下、履いてません、ね?
ダダダダ...メです...よ。
...風邪...ひき、ます」
かすれたチャンミンの声は囁きに近い。
チャンミンが可哀そう。
お医者さんに診てもらわないと!
注射とか点滴とかしてもらわないと!
だって、チャンミンは人間みたいな造りをしているようだから。
ご飯も食べるし、おしっこもするし、眠たくもなる。
それとも...工場に連れていって修理をしてもらえばいいのかな。
でも、それが出来ずにいる。
父さんにそう訴えたら、「新しいものにするか?」と言いそうだから。
父さんの性格を考えたら、そう言うに決まってる!
アンドロイドを心配する者は、この屋敷にはいない。
アンドロイドのために、遠くからお医者さんを呼んでくれる人は、この屋敷には誰もいない。
冬の湖に突き落とされてしまったチャンミン。
ピアノのレッスンを知らせに俺を探しに来た女中頭Kと、途中鉢合わせになった。
この時だけは、Kに感謝した。
遅れて2、3人の従兄弟たちも俺を追いかけてきていて、彼らの補足のおかげで女中頭Kは事態を理解した。
運転手さんたちを引き連れて桟橋に戻った。
ロープを結わえた浮き輪を投げ入れて、大人3人の力でやっとのことでチャンミンを引き上げたのだ。
ずぶ濡れになったチャンミンは、ガクガクに震えていた。
DとE、残りの従兄弟たちはいなくなっていた。
待女Tさんに泣きつくことになった。
「奥様の薬箱に、あったはずです」
「Tさん、大丈夫?
怒られない?」
「奥様の薬コレクションときたら...。
1粒2粒なくなっても、わかりません。
1瓶なくなっても、わからないでしょうね」
「ユノ様!」
「ん?」
「お耳は、平気ですか?」
「うん、大丈夫。
今はチャンミンが大変な時なんだ。
これくらい、大したことないよ」
Tさんから分けてもらった薬瓶を、手の中にぎゅっと握りしめて、チャンミンの元へ走る。
「チャンミン、薬をもらってきたよ。
飲んで?」
俺に気づいて、にこっと、チャンミンの口角が上がった。
「笑わなくていいんだよ?」
俺はよしよしと、チャンミンの頭を撫ぜてやった。
チャンミンの唇はかさかさで、皮がめくれあがっていていた。
握りしめてきた白い錠剤を、チャンミンの唇の間に押し込んだ。
このまんまじゃ、チャンミンの喉にひっかかってしまう。
水!
俺は水の入ったグラスと、チャンミンの唇を交互に見る。
グラスの水を口いっぱい、ふくんだ。
そして、チャンミンの口に俺の口をくっつけた。
困ったな...チャンミンの口は閉じたままだ。
ふくんだ水を一旦、ごくりと飲み込んだ。
「チャンミン、ちょっとだけ口を開けて?」
俺の言うことに素直に従って、チャンミンの口が浅く開いた。
俺はもう一度、水を口いっぱい含んだ。
チャンミンの隙間へちょろちょろと、注いだ。
チャンミンの喉がごくりと動いて、俺の水を飲みこんだ。
「もっと水いる?」
チャンミンはこくんと頷いた。
コップの水を口に含んで、チャンミンの唇の隙間から流し込む。
「ジュースを飲む?」
チャンミンはこくんと頷いた。
「オレンジジュースだよ。
甘くて酸っぱくて、美味しいよ」
ジュースを含んでは、チャンミンに飲ませてあげる。
何度も繰り返した。
繰り返すうち、唇の隙間へ注ぎ込むんじゃなく、俺とチャンミンの唇を合わせて、口移しに与えると効率がいいと知る。
こういうのがキス、っていうのを知っている。
屋敷内で、キスしてる人を見たことがある。
その時は、キスしてる、なんてこれっぽっちも思わなかった。
俺が10歳になったときに、今回の出来事を振り返ってみた時、あれはキスだったんだ、とあらためて知ったのだった。
「あ...り、がと...うござい...ます」
チャンミンは熱のせいで、ほっぺをてかてかに光らせて、眩しそう俺を見上げた。
「のどが渇いてたら、俺に言うんだよ?
ヨーグルトはいる?
スープも持ってこようか?」
チャンミンは目を細めて、うんうんと頷いている。
俺を頼ってくれることが嬉しくてたまらなかった。
今夜は食堂で食べずに、部屋まで食事を運んでもらおう。
それをそのまま、チャンミンのところに運ぼう。
・
ねぇ、チャンミン。
早く良くなってね。
あいつらにはもう、指一本触れさせないからね。
俺が守ってあげる。
おやつも全部あげるし、早起きするし、勉強もいっぱいする。
だから安心して、いっぱい寝てていいからね。
早く元気になって、俺と遊ぼう。
お弁当を持ってピクニックに行こう。
ね、チャンミン?
(つづく)
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