~ユノ33歳~
キッチンで誘われた時、Bとする気は全くなかった。
チャンミンの絵を見たいと、Bは軽い気持ちでねだったんだろうが、俺は動揺していた。
アレはいけない。
網ストッキングと真珠のネックレスだけを身につけた、10代の少年。
アート作品から大きく脱線してしまった、淫らな官能画だ。
チャンミンに抱く愛情を濃厚に漂わせた、非常に個人的なものになってしまった。
見る者が見れば、あの作品に込められた念をキャッチするだろう。
Bは鈍感な女じゃない。
「いいよ」と頷けるはずもなく、かと言って「駄目だ」と拒絶するのもおかしな話だ。
Bは俺の妻だ。
返答に困った俺は、Bの腕を寝室まで引っぱって、ベッドに押し倒した。
その場を取り繕うための行為に、俺はなんて最低だ、と自分自身に嘲笑した。
・
「ユノ」
洗面所に向かう俺の背を、Bは呼び止めた。
「赤ちゃんが欲しい」
思考がストップした。
俺の背中が震えたことに、Bが気付かずにいてくれたらいい。
「...B?」
ゆっくりと振り向いた。
Bの表情が微笑みから、目を丸くした驚いたものに変わった。
その目元がチャンミンに似ていた。
「ユノったら...そんなに驚いた顔しなくても」
「いらない、って言ってなかったっけ?」
咎める口調にならないよう、慎重に発音した。
「言ってたわね。
でも...この前、友だちの赤ちゃんを抱っこさせてもらったの。
私、感動したの。
赤ちゃん...欲しいなぁって」
「......」
「だから...今度から避妊はしなくていいから」
「...そうだな」
Bが伸ばした手を優しく握ってやって、その手を放した。
Bは気まぐれな女だ、そのうちこの件も忘れるだろう。
そう自分の中で締めくくった。
・
俺たちの結婚がきっかけで、陰気で湿った目を持つ、美貌の少年...チャンミンと出逢った。
チャンミンに会いたくなった。
Bが浴びるシャワーの音を確認し、洗面台に置きっぱなしにしてあったスマホを手に取った。
「チャンミン?」
『...義兄さん?』
電話に出たチャンミンの口調が、意外そうなものだったのも当然だ。
俺からチャンミンへ電話をかけるのは、非常に稀なことだったからだ。
「今から、こっちに来られるか?」
『あの...すみません。
...今、学校です』
ひそひそ声に、「そうだろうね」と、非常識な時間にかけてしまったことに思い至る。
「これだから、自由業は駄目だな。
曜日感覚が抜けていたよ...ははは。
電話に出て、大丈夫なのか?」
『休み時間です。
...義兄さん?
どうかしたんですか?』
「チャンミンの絵を描きたくなって...」
『さすが義兄さんは芸術家ですね』
俺は『芸術家』でも何でもないよ。
お前を前にした俺は『芸術家』なんかじゃない。
恋に溺れた30男に過ぎないんだ。
お前をモデルに描いたあの絵はもう、芸術作品の性質を失いつつある。
「急に電話して悪かった。
じゃあ...週末に...」
『待って!
行きます、今から行きます』
「学校は?」
『大丈夫です。
今すぐ行きますから』
「待ってる」
高校生に学校をサボらせて呼びつける俺は、どうかしている。
実は、それくらいBの発言に動揺していたのだ。
・
チャンミンを待つ間、スキャニングした手描きの線画に、PCディスプレイ上で色付けする作業に没頭していた。
X氏のカフェの仕事が好評で、多方面から仕事が舞い込んだ。
Bへ言い訳した「忙しい」も、あながち嘘ではないのだ。
一息つこうとアトリエへ行き、イーゼルに掛かったままのチャンミンの絵の正面に立つ。
第3者の目でそれを眺めた。
キャンバスの中でチャンミンが、艶やかで不敵な微かな笑みを浮かべて、俺を見つめ返している。
コレはいけない。
人に見せられるものじゃない。
描き始めの当初は浅黒い肌をしていたのに、今じゃ桃色に肌を染め、引き結んでいたはずの唇は、半開きになり濡れて光ってた。
情事の後の脱力した気だるげさと、湿った濃い空気を漂わせている。
誰にも見せたくない。
「はあ...」
俺は嘆息し、キャンバスをイーゼルから下ろし、アトリエ奥に裏返しに置いた。
出品予定の展覧会の趣旨から外れ過ぎている。
「駄目...か...」
その直後、チャイムの音に俺ははじかれるように玄関ドアへ走る。
昨日会ったばかりなのに、まだ足りないんだ。
チャンミンへの想いを深く分析し過ぎて、難しく考え過ぎていた。
チャンミンが囁いた数えきれない「好き」に答えずにいたのも、理詰めで導かれる答えを探っていたからだ。
もうそんなことは、どうでもよくなった。
求められたら、何倍にもして求め返す。
俺はチャンミンに恋をしている。
開けたドアの向こうに、無表情のチャンミンが立っていた。
ところが、俺の顔を見た途端、不安で揺れた眼がぱっと輝いた。
そんな顔を見せられたりしたら...。
吸った息を吐くのも忘れてしまうくらい、感激していた。
(つづく)
[maxbutton id=”23″ ]