〜チャンミン〜
「チャンミンは、あたしたちと一緒に住まないの?」
あーちゃんは僕に問う。
「住みたいよ」
僕は即答する。
「じゃあ、なんで?」
「一緒に住む前に、きちんとしなくちゃいけないことが沢山あるんだよ」
僕と交際することだけでも躊躇していたユンホさんだ。
親を亡くした姪っ子の親代わり、婚約していた男が部屋を出ていった...そして、新しい男が出入りするようになった...第三者が抱くイメージの想像は容易につく。
僕は当事者だから、そんな輩の視線なんか全く気にしないし、ユンホさんに対してそんなこと全く思わない。
僕も頭が固い方だから、ユンホさんが気にしているものが何なのかよく分かる。
ユンホさんには、面倒を見なくてはならない小学生の女の子がいる。
恋に浮かれる姿を、多感な子供の前にさらすことに躊躇するのも分かる。
彼らの暮らす部屋に突如出入りするようになった新しい男の登場に、同じマンションの住人たちはどう見ていたのか...想像がつく。
これらのこと全部、よく分かっていたから、僕は彼らを驚かさないよう、少しずつ少しずつ距離を縮めていくことに尽力した。
1歩1歩手順を踏んで、性急にことを進めないようにって。
ユンホさんの部屋に泊まったことはないし、外泊もしたことはない。
大人の恋愛において、今どき珍しいほどの『清き関係』だ。
おマセなあーちゃんが指摘していたのが、この関係性のことだ。
ユンホさんはひとつの関係を終わらせたばかりで、疲労困憊なのだ。
男を信じられなくて、当分はこりごりだったんだろう。
新たな人間関係を結ぶには時期早々だと考えていたのに、「付き合って欲しい」という僕の告白に頷いてくれた。
あーちゃんが僕に懐いてくれたことが、ユンホさんの背中を押したんだろうと分析している。
・
「チャンミン、弱すぎ。
もっとユノさんを押して押して、押しまくらないと!」
「そうは言ってもね、ユンホさんは真面目な人だから」
あーちゃんはずずずっと音をたてて、クリームソーダーをストローで吸い込んだ。
「今のままじゃチャンミン、断られるよ」
先週、僕はプロポーズをした。
承諾してもらえる確率は30%だろうと見込んでいたくらい、確信が持てない博打のようなプロポーズだった。
「僕はこれくらい真剣なんですよ」って、僕の覚悟を見せたかった。
単なる独身者同士の恋とは違う。
ユンホさんの笑顔の側にいるには、彼の過去もあーちゃんも全部ひっくるめて受け止めなくちゃいけないのだ。
もちろん僕にだって、この年まで生きていれば当然、きれいじゃない過去がある。
僕が彼らの暮らしに転がり込んでくるような、そんな同居にはしたくなかった。
正々堂々とした同居にしたかった。
「考えさせて」
これがユンホさんの答えだった。
予想が半分当たった。
「YES」と答えるのを邪魔しているもの...それは、ユンホさんが恋愛に対して抱いている「恐怖心」だってことは、僕は全部わかっているんだよ。
僕は、ユンホさんもあーちゃんも全部ひっくるめて大事にしたいんだよ。
僕を信じて、寄りかかってよ。
「このままじゃ、ホントに断られるよ。
あたしたち...引っ越しちゃうよ」
あーちゃんの言う通りだ。
プロポーズに『NO』と言われそうだった。
僕もカップの中身を飲み干した。
ユンホさんが淹れてくれたコーヒーの方がずっと美味しい、と思った。
「魔法をかけてあげるから、行こう!」
そう言ってあーちゃんは席を立つと、ぽかんと口を開けたままの僕を置いてカフェを出て行ってしまう。
「あーちゃん、どこ行くの!」
僕は慌ててあーちゃんの後を追った。
「ユンホさんが心配するから早く帰ろう」という僕の言葉を無視して、あーちゃんが導いたのは団地の裏手にある小さな公園だった。
「ここなら誰もいない。
ねぇチャンミン。
ユノさんに電話して。
あたしたちはご飯食べてから帰るって」
「えっ?
えっ?」
「早くして!」
あーちゃんの言う通りにした僕は、芝生の上にあぐらをかいた彼女の隣に座った。
2月の夜の訪れはまだ早い。
辺りは真っ暗で、団地の窓から何百もの光が灯る。
「これはね、ユノさんが買ってくれたスカートなの」
あーちゃんは、お星柄のフレアスカートをひらひらさせた。
「よく似合ってるよ」
「いっぱい本を読んで調べたの」
あーちゃんは図書館で借りた分厚い本を膝に広げ、僕はスマホの灯りでページを照らした。
「欲しい男がいたら、ズルいことしてもオーケーなの」
「ズルいことって?」
あーちゃんが何をたくらんでいるのか、全然分からない。
「チャンミン!
あたしはユノさんが大好きなの!
ユノさんはチャンミンのことが大好きなの!
ユノさんったら、チャンミンのことばかり話してるんだよ?」
「あーちゃん...」
あーちゃんは、ゴシゴシと目をこすった。
「ユノさんは頑張りすぎる人なの。
チャンミンがユノさんを守ってくれなくちゃ。
あたしは子供だから、ユノさんのことをセットクできないの。
チャンミン、お願い。
チャンミンに頑張ってもらいたいの」
「うん、頑張ってるよ。
今までも、これからも」
僕はあーちゃんの頭を撫ぜた。
「それじゃ足りないの!
もっと頑張らなくちゃダメなんだってば」
あーちゃんはしゃがんだ僕の背後に立った。
空を見上げると、濃紺の空に無数の星屑が散らばって、そのいくつかが頼りなげに瞬いていた。
空気が冷たい。
「チャンミンに魔法をかけるから」
「魔法?」
子供らしい言葉に吹きだすと、あーちゃんは僕の腕をパシッと叩いた。
「あたしは大マジメなの!
コソクなシュダンを使うんだから。
キケンな魔法だよ」
「わかったよ」
「ユノさんのシンソーシンリにハタラキかけるんだよ」
「難しい言葉をよく知ってるんだね」と茶化したら、また腕を叩かれた。
「絶対に、自分のショータイをバラしたら駄目だからね」
「うんうん」
あーちゃんは、ごにょごにょと呪文を唱えだした。
紺色のスカートに散った白い星柄が、星空と溶け合った、と思った瞬間。
「あっちでもユノさんを助けてあげてね」
あーちゃんの凍えた小さな手が、僕の両眼を覆った。
出会って日が浅い僕の力だけじゃ、開ききっていないユンホさんの心を動かせなかった。
固い大人の心を説得するには、幼い子供の拙い言葉だけじゃ力不足だった。
9歳の女の子がかけた魔法に、僕はかかった。
目を開けた時、僕は1LDKの小さな部屋にいた。
整頓されてはいたが、どこか荒んだ空気をはらんだ部屋だった。
すぐに分かった。
ここはユンホさんの部屋だ。
「よし!」
僕は台所に立ち、湯を沸かし始めた。
深夜近く、ガチャっと鍵が開く音がして現れたのは、亡霊のような顔をした疲れ切ったユンホさんだった。
僕と出会う前のユンホさんが、目の前にいる。
20代のユンホさん。
「おかえりなさい」
僕はユンホさんの手からバッグを取り上げ、彼のジャケットを脱がせた。
突如現れた僕の存在に、驚かないほどユンホさんは疲弊しているらしい。
「くたくたでしょう」
倒れこむようにユンホさんは座り込んだ。
顔色が悪くても、ぱさついた髪をしていても、ユンホさんは綺麗でかっこよかった。
あーちゃん、僕に任せて。
あーちゃんが言う通り、ユンホさんのシンソーシンリにハタラキかけるから。
まずは、弱ったユンホさんの心身を癒やしてあげないと。
お風呂の湯加減を確かめながら、僕はよし、と大きく頷いた。
(つづく)