チャンミンは、始業から2時間遅れで出社した。
大学病院で、先日と同じ医師の診察を受け、薬を処方してもらったのだ。
渡された処方箋を見ると、薬の種類が変わっていた。
(まあ、いっか)
待ち時間や人ごみに疲れていたチャンミンは、薬のボトルを無造作にバッグに放り込み、職場へと急いだ。
スタッフたちは持ち場についており、事務所にいるのは課長だけだった。
「おはようございます」
ひとり早々と昼食をとっていた課長は、口の中の物を咀嚼しながら、
「やあ、チャンミン君...今朝は病院だったね」
「はい、ご迷惑をおかけしています」
「気にしなくていいんだよ、のんびりやればいい」
課長は、頭を下げるチャンミをまあまあと手で制し、
「ひどいのか?」
「はい?」
PCを立ち上げて、業務計画表を確認していたチャンミンは、手を止める。
「薬があるので」
「無理はしないように」
「はい」
・・・
(注目されるのは苦手だ)
給水ポンプ室のメーターパネルの数値を確認しながら、チャンミンは思う。
(自分の様子をうかがわれたり、心配されるのは、居心地が悪い)
周囲から気遣いの言葉をかけられる対象になっている自分を、かっこ悪かった。
(周りからどう見られてるなんて、気にもならなかったのに、
僕のことは、放っておいて欲しい)
診察では、頭痛の原因については「ストレスでしょう」とのことだ。
「予防薬は欠かさず飲んでください」
(ストレス、と言ったって、何のストレスだよ。
僕はこんなにマイペースに生きているのに)
モーターの低くうなる音が普段より大きく感じたが、数値は正常だ。
イラついたチャンミンは、メーターボックスの蓋を荒々しく閉める。
コンクリートの階段を上がった先の、重いスチール製ドアを引き、ポンプ室を出ていった。
「シヅクさん」
ベンチにごろりと横になっていたシヅクは、跳ね起きた。
「カイ君か!びっくりした!」
生垣の陰からひょいと現れたカイは、起き上がったシヅクの隣に、どかりと座る。
カイは半袖Tシャツ姿で、腰に脱いだジャケットの腕を結んでいる。
ドーム屋根からやわらかに降り注ぐ12月の日光が、色素の薄いカイの髪色は金色に透かしている。
「こんなところでさぼってたんですね」
「そんなとこかな」
シヅクは、作成途中だったタブレットをスリープモードにして、バッグに押し込んだ。
今日は、ポカポカと天気が良く、ドームの中は上着が必要ないほど暖かい。
シヅクもジャケットを脱いで、枕代わりにしていた。
「いいところですね」
鉄製のガーデンテーブルとベンチが置かれたそこは、ぐるりと生垣で覆われている。
この場所はシヅクのお気に入りの場所だ。
「わざわざこんな端っこに誰もこないからね」
地面はコンクリート製で、排水、給水、電気系統の点検のため出入りできる鉄製のハッチが並んでいる。
「髪の毛、はねてますよ」
腕を伸ばしてカイは、シヅクのはねた髪を優しくなでつけた。
「あ、ありがと」
カイの流れるような動作は、シヅクはドキリとする間もないほど自然だ。
シヅクは、カイが触れたばかりの髪をなでつけながら、
「カイ君さ、モテるでしょ?」
「ハハハっ!シヅクさん、そればっかですね」
カイはぷっと吹き出した。
「手がかかる姉がいるからですかね」
「かまってちゃん、ってこと?」
「そうじゃなくて、おっちょこちょい度が異常なんです。
それの後始末をしているうちに、身についたというか...」
「ふうん」
シヅクもカイも、組んだ腕に頭をあずけてドームの天井を見上げた。
「シヅクさんは、付き合ってる人はいないんですか?」
「いたらいいなぁ、とは思うよ」
チャンミンの顔がちらりとシヅクの脳裏に浮かぶ。
(チャンミンと、付き合うことはあり得るのだろうか?)
カイは、ちらりと隣のシヅクを盗み見る。
そばかすが目立つ化粧っけのない肌や、うっとりと空を見上げる横顔をきれいだと思った。
「シヅクさんは、ショートヘアが似合いますね」
「そう言ってくれると嬉しいわぁ」
「シヅクさんの雰囲気に合ってます」
「ありがと。
これな、自分で切ってんの」
「へぇ...ワイルドですね」
「美容院での会話が面倒なんだよな」
カイは横向きに座りなおす。
「あはは、シヅクさんってそんな感じ。
そうそう、
姉はサロンに勤めてるんですよ」
「お姉さん、美容師か何か?」
「いいえ、エステティシャンです。
サロンに併設してるエステサロンです。
もしシヅクさんが、プロに髪を切ってもらいたくなったら、チケットあげますから、いつでも言ってくださいね」
「ありがと」
シヅクも横向きに座りなおして、カイの方を向く。
「もっと、女らしくせんと、彼氏なんてできんのかな」
カイは口角を上げて笑う。
(笑うとますます、お人形さんみたいやな)
「シヅクさんはそのままでいいんです」
可憐で、同時に華やかな笑顔から目が離せないシヅク。
「カイ君がそう言ってくれると、お世辞でも嬉しいよ」
カイはシヅクと目を合わせたまま、小首をかしげてさらに笑顔を深める。
(はぁ、カイ君よ、その笑顔は反則だよ)
「僕も彼女が欲しいです」
軽くため息をついたカイは、肩をすくめる。
「はぁ?
何言っとんの!」
「女友達はいても、恋人はいないんですよ」
「贅沢な悩みやな!」
シヅクはカイの肩を突くと、ケラケラ笑った。
カイは思う。
(シヅクさん、今はまだ僕のことを眼中にない感じですね。
僕は年下過ぎますか?)
「いい天気やなぁ」
「そうですね、眠くなってきますね」
ガタガタと金属音がする。
足元に並んだハッチのひとつがキィと開き、頭がぬっと現れた。
「わっ!」
シヅクとカイは大声を出し、飛び上がる。
頭の持ち主は、チャンミンだった。
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