(1)あなたのものになりたい

 

 

長くほっそりとした首をひきたてる、ハイネックの洋服がよく似合った。

 

彼は長らく、首に枷をした生活を送っていたせいで、茶色く色素沈着した痕がぐるりとできていた。

 

それは、固い牛革製の太い首輪だったから。

 

可哀想に、と憐れみの気持ちが湧かない俺は、冷たい人間なんだろうな。

 

自ら望んで飛び込んだ『商品』としての身分だとしたら、同情できないのは当然のこと。

 

やむにやまれぬ事情で、意に沿わない身分に堕ちてしまった結果だとしても、やっぱり俺は同情しない。

 

なぜなら、彼と同じ過去を持つ俺だったから。

 

もう何年も前の話だ。

 

男の肢体を売り物にする店で、俺自身が『商品』となって陳列されていた過去がある。

 

枷から解放された今、彼は「首がすうすうして落ち着かない」と始終こぼしていた。

 

「じゃあ、新しい首輪を買ってやろうか?」

 

冗談のつもりでそう言ったら、彼はしばし考えた末、

 

「それもいいかもしれませんね。

次はシープスキンの柔らかいものにしてください。

色は青がいいです。

宝石が埋め込まれていたら...素敵でしょうね」

 

なんて真顔で答えて、うっとりとした表情を見せる。

 

こういう時に初めて、彼に憐れみの情を抱いてしまうのだ。

 

「馬鹿言うんじゃないよ。

首輪なんて...するもんじゃないよ」

 

俺にも、首輪をされリードに繋がれて犬のように引っ張り回されていた時があったのだ。

 

俺は自身の首をさすりながら、鏡の前で一回転して、新しい洋服をまとった全身を映す彼の後ろ姿を眺めていた。

 

俺の暮らしに、可愛いワンコが加わった。

 

子犬みたいな愛くるしい目をした、成人男性。

 

彼を買ったのは、俺だ。

 

連れて帰るつもりなんて...なかったのに...。

 

今こうして彼は、俺のそばにいる。

 

 

 

 

「お兄さんはお金持ちなんですね」

 

彼は俺の家に通されるなり、調度品のひとつひとつに感嘆の声をあげながら、ひと部屋ひと部屋丁寧に見て回った。

 

「こんなゴージャスな生活を送れるなんて...どうやったらできるのですか?」

 

いきさつを説明し出したら、当時のことを思い出して辛くなる...なんて、繊細な精神の持ち主なんかじゃない。

 

説明が面倒だった俺は、「仕事を頑張った成果だよ」とだけ答えておいた。

 

彼はより詳しい説明が語られるのを待っていたようだった。

 

目の前のこの男は、微に入り細に入り質問攻めにしそうな人物だ。

 

好奇心旺盛な、いたずら盛りの子犬みたいな眼をしている。

 

彼の上目遣いに負けて、「いろいろとね」と付け加えたが、「で?」とさらなる言葉を待っている様子。

 

「おいおい話してやるよ。

風呂に入りたいだろう?」

 

ことの後、彼はシャワーを浴びる間もなかったはずだ。

 

俺が店を立ち去ってすぐに、俺を追いかけてきたんだから。

 

俺もあの店出身だ。

 

店主は当時の者と変わっていたし、改築したらしく内装も設備も新しくなっていた。

 

ただ、ガラス張りの陳列棚はいけない。

 

ペットショップそのものじゃないか。

 

そんな場所で俺は、1晩レンタルしたい気に入りを探したのだ。

 

レンタルする客の気分を味わいたかったんだろうな。

 

店一番の商品とはどれほどのものなのか、といった興味本位だ。

 

目の前に商品があり、それを買う客がいる。

 

俺はそれをしたまでのこと。

 

俺の自尊心を損なわせ、嫌悪していたはずの場所に、なぜ舞い戻るような真似をしたのか。

 

さあ...分からない。

 

 


 

 

「僕を連れて帰って下さいよ?」

 

お兄さんの腕にしがみついて頼んだ。

 

「それは出来ない」と断られるかと覚悟してたから、お兄さんは「ついて来い」といった風に顎をしゃくったから、僕の中で喜びが弾けた。

 

お兄さんは歩くのが早くて、体力が不足している僕はついていくのがやっとだった。

 

僕はずっと、狭いところに閉じ込められていたからね。

 

しょうがないな、って僕の腰を抱いてくれて、僕のスピードに合わせて歩いてくれた。

 

お兄さんの身長は僕と同じくらい、なよなよっとした僕とは大違いだ。

 

お兄さんの身体はうんと鍛えられているはず。

 

お兄さんに抱かれておきながら、「はず」と言ったのは、お兄さんは服を着たままだったから。

 

でも、お兄さんの下で揺れていた時、しがみついたお兄さんの腰の引き締まった感じから、きっと逞しい身体をしているんじゃないかな、と予想している。

 

きびきびとした足運び。

 

まっすぐな背筋。

 

お兄さんは歩くのが好きなんだって。

 

特に、夜の街をぶらぶらとあてもなく、散歩をするのが好きなんだって。

 

靴擦れしてしまった僕を心配して、お兄さんはタクシーを呼んでくれた。

 

隣に座るお兄さんの横顔を、そうっと横目で見た。

 

お兄さんはとっても綺麗な顔をしている。

 

男の人相手に、綺麗だって思うなんて変だろうけど、ほんとーに綺麗なんだ。

 

僕はこれまで、沢山の男の人を見てきた。

 

醜い人もハンサムな人も、変態なのもまともなのも、若かったり年寄だったり...。

 

お兄さんに買い取ってもらえて、僕はラッキーだ。

 

ほんとーに、よかった。

 

そろそろっと片手を滑らせて、お兄さんの手を握った。

 

びっくりしたお兄さんがこちらを見ているのは分かっていたけど、僕は知らんぷりしていた。

 

僕の手が、お兄さんの大きな手で包まれた。

 

温かくて力強くて、僕の胸がぎゅうっとなった。

 

ちょっとだけ涙が出たけど、恥ずかしかったから顔を背けて、窓の外を見入っているふりをしていた。

 

僕を買ってくれたお兄さんのために、何でもしてあげようと思った。

 

 

 

 

お兄さんちのお風呂は広くて清潔で、たっぷりとお湯が出るし、バスタオルも分厚くふかふかで...素敵だ。

 

ぬるぬるしていたお尻をきれいにした。

 

いい匂いのするシャンプーが嬉しくて、髪を2度も洗った。

 

僕のために、Tシャツとスウェットパンツを用意してくれた(これはお兄さんのものだよね)

 

下着なんてパッケージに入ったままの新品だった。

 

浴室を出た僕は、お兄さんがいるリビングへ走った。

 

「おに...」

 

声をかけるのがためらわれたのは、お兄さんが怖い目をしていたからだ。

 

ソファの肘掛けに頬杖をしたお兄さんは、斜め上の空を睨んでいた。

 

僕はその場に立ち尽くして、お兄さんの様子を見守った。

 

「ああ、ごめんごめん」

 

僕の存在に気付いたお兄さんは、無表情を崩して微笑を浮かべてくれた。

 

無知な僕からは、気のきいた言葉が出てこない。

 

だから、お兄さんの足元にひざまずいて、お兄さんの太ももを抱きしめた。

 

それから、お兄さんのズボンのファスナーに手を伸ばした。

 

「よせっ」

 

僕の手は、お兄さんの手で振り払われた。

 

ショックを受けた僕の表情に、お兄さんは「悪かった」と言って、僕の頬を撫ぜた。

 

優しい指。

 

お兄さんにセレクトされた時、僕の首輪に触れたお兄さんの指に、僕は鳥肌がたったんだ。

 

お兄さんを慰める方法が、あれしか思いつかなかったのだ。

 

僕はお兄さんの太ももに頬ずりをした。

 

「僕をお試ししてみて...どうでした?」

 

どんな言葉を発していいのか分からなくて、代わりに尋ねてみた。

 

「...よかったよ」

 

お兄さんは僕の頭を撫ぜてくれる。

 

「今から...抱いてくれますか?」

 

撫ぜる手が、ぴたりと止まった。

 

「俺はもう、客じゃないんだ。

そんなことしなくていいんだよ?」

 

「そういうわけにはいきません」

 

僕は服を脱ぎ、お兄さんの太ももの上に跨った。

 

裸で過ごすのが当たり前だったから、洋服を着ているのは居心地が悪かったんだ。

 

口づける間際に、お兄さんの指に阻まれた。

 

「その前に...」

 

僕を見上げるお兄さんの眼が、黒々としていて陰気だった。

 

お店では気づかなかった。

 

「お前の名前を尋ねていなかった」

 

「...マックスです」

 

「それは店での呼び名だろう?

俺が尋ねているのは、本名だ」

 

名前なんてあってないような世界にいたから、お兄さんの質問に答えるのに時間がかかってしまった。

 

客にとって、僕の名前なんてどうでもよくて、興味があるのは僕の身体なんだから。

 

えーっと、僕の本当の名前って、何だったっけ?

 

「...チャ...チャンミン」

 

久方ぶりの発音で、自分の名前なのにそうじゃないみたい。

 

「へぇ。

いい名前だね」

 

お兄さんに褒められて得意になった僕は、お兄さんの唇を食んで、甘噛みした。

 

お兄さんも僕と同じ、『犬』出身だ、と言っていた。

 

辛かっただろうな...。

 

僕の場合は、現状を深く追求しないように心に蓋をしていたから。

 

お兄さんが僕にお金を払ったのは、決して同情からじゃない。

 

そんなことくらい、分かってる。

 

 

(つづく)

 

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