(19)僕を食べてください(BL)

 

~君を知っている~

 

 

目を何度こすっても、視界は赤く染まったままだった。

 

ぬぐった手の甲が真っ赤だった。

 

これは、血...?

 

耳がおかしくなったみたいだ。

 

無音世界だった。

 

僕はダークグレーのマットに四つん這いになっていた。

 

膝が痛くて体重移動させると、ぐらりと地面がかしいだ。

 

黒く濡れたマットに、ワインレッドのバッグが転がっていた。

 

母の誕生日に父が贈った、おろしたてのバッグだ。

 

助手席のシートの真下のそれを引き寄せた。

 

シートによじのぼったら、ガクンと傾いた。

 

ヘッドレストにしがみついて、窓を力いっぱい叩いたのに、誰も来てくれない。

 

僕は閉じ込められた。

 

パニックに陥ってもおかしくないのに、僕は叫び声ひとつあげなかった。

 

窓の外から目が眩みそうに強い光線が、差し込んでいる。

 

鈍い音とともに、ガラスのかけらが僕に降り注ぐ。

 

シートに散らばる透明で四角い粒が、おはじきみたいで綺麗だった。

 

二の腕を力強くつかまれたかと思うと、窓枠の外へ引きずり出された。

 

夜虫の鳴き声が、わんわんと五月蠅い。

 

何者かに抱きかかえられた僕は、昼間の熱がこもるアスファルトの上に下ろされた。

 

その人は膝を折って、僕の目線に合わせた。

 

お人形さんかと思った。

 

蝋のように青白いおでこをしていた。

 

目の縁だけが赤く色づいている。

 

赤くつややかに濡れた唇を、手の甲で拭った。

 

そして、人形のような青い目と真正面から目が合った。

「僕は...」

 

喉にひっかかって、思うように言葉が出てこない。

 

「...君を知っている」

 

ユノは僕の手の中のサングラスを取り戻すと、すかさずかける。

 

ユノの目元が、再びサングラスに覆われた。

 

「君に会っている」

 

僕の口の中が渇いていた。

 

「事故のとき」

 

セミの音も清流の音も、遠のいた。

 

「僕を...助けてくれて」

 

小学生だった僕が見た彼と、大人になった僕の隣に座るユノが、同じだった。

 

「僕は...子供だった」

 

しわひとつない顔。

 

「君は...」

 

今の僕と同い年にしか見えない。

 

「...いくつなんだ?」

 

「何歳だっていいだろ。

例えば、20歳と言えばいいのか?

30歳なら納得するのか?」

 

僕はユノに助けられたのだ。

ヘッドライトのハイビームが、僕らを眩しく照らしていた。

 

耳をつんざく轟音に驚いて振り返ると、僕を閉じ込めていた車が消えていた。

 

 

 

 

アスファルトにぺたりと座り込んだ僕の、手の平をじんじんと焼くアスファルトの熱さを、今も覚えている。

 

「若作りをしているだけさ」

 

僕の髪をくしゃっと撫でたユノは、立ち上がった。

 

「帰ろうか」

 

ユノは僕を残して、すたすたと歩き去った。

 

「置いていかれたくないんだろ?」

 

梯子の途中で、ユノが大声で僕を呼んだ。

 

 

 

 

ユノは僕の恩人だった。

 

墜落間際のつぶれた車から、僕を助け出してくれた。

 

母のバッグを抱きしめた僕を、カワヤナギの陰に寝かせた。

 

近づく悲鳴や怒号、サイレンの音に、ユノは立ち去った。

 

しばらくの間、僕は無言だった。

 

ユノも前方を睨みつけていて、助手席の僕をちらとも視線を向けなかった。

 

「僕を覚えていた?」

 

「あの河原で、チャンミンの話をきいて思い出した。

あの時は、旅の途中でたまたま通りかかった」

 

「そうだったんだ」

 

「あの時の、可愛い坊やだったんだって。

大きくすくすく育ったんだね」

 

あの時のユノは、若くて綺麗なお兄さんだった。

 

今のユノも若い。

 

エアコンがききすぎていて、鳥肌のたった二の腕をさすっていたら、「寒い?」とユノは風量を弱めた。

 

気にかかっていた一件を思い出した。

 

「変なことを聞くけど...僕って、怪我していたよね?」

 

顔を前方に向けたまま、サングラス越しのユノの目がこちらを向く。

 

「怪我って、どこ?」

 

「腕なんだ。

血が出ていなかった?」

 

傷一つない日に灼けた腕を撫ぜて見せ、ユノに尋ねる。

 

「いや。

怪我だなんて、大丈夫なのか?」

 

初耳のようなユノの様子に、僕の頭に困惑が渦巻いた。

 

(嘘だろ?

僕の気のせいだったのか?)

 

鋭いトタン板が切り裂いた瞬間の激痛を、覚えているのに。

 

血がにじむ傷口をユノに晒して、下半身が重く痺れた感覚を覚えているのに。

 

訳がわからない。

 

吐き気がした。

 

額に手を当てて考え込む僕の二の腕に、ユノの指先が触れた。

 

「気分が悪いのか?

家まで送るよ」

 

僕は首を横に振った。

 

冷たい肌を持った、年齢不詳のユノの側を離れたくなかった。

 

僕をばあちゃんちの前に降ろしたら、ユノのX5はうんと遠くまで走り去って、二度と戻ってこないのではという恐怖があった。

 

2日前、ユノと初めて食事をしたファミリーレストランの前を通り過ぎた。

 

「河原で話していたことの続き」

 

ユノが淡々と話し始めた。

 

「チャンミンの言わんとすることは、なんとなく分かっているよ」

 

膝にのった僕のこぶしに、ユノの冷たい手がのった。

 

「いいか、チャンミン?

『好き』だなんて言葉を簡単に口にするものじゃないよ。

まだ俺の身体のことを、知らないだろう?」

 

羞恥で僕の身体が熱くなった。

 

「チャンミンは経験がないから、仕方がないさ。

だから。

俺の身体をすみずみまで見て、触って、感じる前に、『好きだ』なんて早すぎるだろう?」

 

ユノの言う通りだ。

 

僕のセックスは、挿れられるだけだ。

 

自分が気持ちよくなることしか、考えていなかった。

 

恥ずかしい。

 

「好きだ」とささやくだけでは、ユノには不十分だった。

 

ユノが信じる愛は、互いの身体を繋げること。

 

「ユノ!

連れて行って!

ユノの家へ。

ユノを抱きたい」

 

ユノへ「好き」を伝えるために、僕はユノの身体を愛撫する。

 

「ユノを愛したいんだ」

 

 


 

 

チャンミンの言葉に応えず、ユノはしばらく黙り込んだまま運転を続けていた。

 

己の信じる愛とは何かを言及するうち、互いの相違が浮き彫りになった。

 

チャンミンの心中が、じわじわと焦燥感で侵食されていく。

 

「ユノの言う『愛』に応えるから、ユノの家に戻ろう」

 

チャンミンはシフトレバーに添えたユノの手を握った。

 

「今日は、無理」

 

間髪入れずに答えたユノは、チャンミンの手の下から自身の手を引き抜き、ハンドルの上へ移してしまった。

 

「どうして?」

 

こんな些細な行動さえ、チャンミンの不安を煽った。

 

「僕の身体が好きなんだろう?

僕もそれに応えるから」

 

「今日は、無理なんだ」

 

「嫌だ」

 

「やることが沢山あるんだ。

それに...少し、気分が悪くなったから」

 

ユノの顔は漂白した紙のように真っ白だったが、フロントガラスから降り注ぐ日光に誤魔化されていて、チャンミンは気付かなかった。

 

ユノの眼の下の隈が、殴られたかのように頬の上まで青黒く拡がっていたが、サングラスで隠れていたせいで、チャンミンはそれを窺い見ることはできなかった。

 

「ヤラなくていいから、ユノの側にいるだけでいいから。

ユノは横になっているだけでいいから」

 

「駄々をこねるなって。

頼むから」

 

「どこにもいかないって約束して。

明日会いに行って、もぬけの空だったなんてことは、絶対に嫌だから。

お願いだから、側にいさせてよ」

 

チャンミンはユノの肩を揺すって哀願していた。

 

「事故るから、手を離せ」

 

ユノはコンビニエンスストアの駐車場にX5を乗り入れると、停車させた。

 

「行かないから」

 

「...わかったよ」

 

チャンミンの切羽詰まった口調に折れたのか、ユノはため息交じりに答えた。

 

単なる早とちりだったが、この朝経験したぞっとした感覚はチャンミンにとって相当なものだった。

 

ユノと何度も繋がったのに、チャンミンは不安だった。

 

「どこにもいったりしない」

 

と、ユノは答え、「今のところは」とユノは心中で付け加えた。

 

(チャンミン...。

こんな展開になるとは思いもしなかった。

引きずり込んだ俺が悪い。

今の俺は、これ以上お前と過ごすのがキツくなってきたよ)

 

「本当に?

絶対に?」

 

チャンミンの目が必死に訴えていた。

 

(連れて帰らなければよかった。

まさかあの時の坊やだったとは。

いっそのこと、あの時食べてしまえばよかった)

 

「ああ。

だから今日は、帰れ、な?

頼む」

 

ユノはサングラスを外すと、薄墨色の瞳でチャンミンを正面から覗き込み、言い聞かせるようにゆっくりと発音した。

 

「嫌だ」

 

チャンミンはきっぱり拒絶して、ユノを睨みつけた。

 

「...チャンミン。

俺を困らせるな」

 

(僕を置いていってしまう。

僕が信じる愛と、ユノが信じる愛が乖離していることが浮き彫りになった今、

がっかりしたユノが、僕を捨ててしまうかもしれない。

ユノに置いていかれるかもしれない。

ユノに捨てられるかもしれない。

残された僕は、どうにかなってしまう)

 

ユノにまつわる不思議はすべてすっ飛ばして、ユノを失ってしまうのではないかという恐怖に支配されていた。

 

「わかった」

 

ユノはチャンミンに気付かれないよう深く息を吐いた。

 

チャンミンが放つ恐怖の香りが、ユノを苦しめた。

 

ハンドルを切って方向転換すると、2人の乗ったX5は元きた道を引き返した。

 

 

(つづく)

 

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