~ユノ34歳~
ふと、こんな考えがよぎった。
このまま関係を続けていって、果たしてチャンミンは幸せになれるのだろうか、と。
俺もチャンミンも、現段階では身動きが取れない。
チャンミンはまず、学校を卒業して親元を離れてもよい立場になること。
俺はBと別れること。
最低あと1年...あと2年は、内緒の関係だ。
Bと別れること...これは今すぐできることだ。
当然の話、Bはショックを受ける。
別れの真の理由は、口が裂けても伝えることは出来ない。
独身に戻った俺は、これで大っぴらにチャンミンと...いや、駄目だ。
俺の部屋に出入りするチャンミン...いずれ、Bの耳に噂が伝わるだろう。
それなら、遠くへ引っ越してしまえばいい。
大学生になったチャンミンは、実家を出て俺の部屋に住めばいい。
なにを夢見たことを言ってるんだ?
俺は馬鹿か?
俺の中で立てていたプランだったが、冷静に考えてみると、出来る限り無難に済むようにと思い描いた身勝手なものだ。
妻Bもチャンミンもどちらも傷つけないように、立ち回ろうとしている俺は狡い。
想いにかられて突っ走るように、チャンミンとの仲を深めてきた。
しまいには、将来に期待をもたせるような言葉で、チャンミンの安心と笑顔を引き出そうとしていた。
こんなんで、いいのか?
チャンミンに航空チケットを贈った日のうちに、それをひるがえすようなことを考えてしまっている。
これからの1年は、チャンミンにとって将来について具体的に考えなければならない時期だ。
それなのに年上の男と、それも姉の夫といかがわしい繋がりを持たせるなんて、正しいことじゃない。
チャンミンを深みに引きずり込んでしまった責任が、俺にはある。
もっともっと深みにハマる前に、チャンミンから離れるべきなんだろうか?
...そうか。
チャンミンを守るためには、この選択が一番なんだろう。
若さゆえに今は、俺に夢中になっている。
時が経てば目が覚めて、もっと健全な関係を結べる誰かを見つけてくれるだろう。
より深みにはハマる前に、俺はチャンミンから離れてやるべきなんだ。
俺たちは健全な関係ではない。
いつかの言葉。
「姉さんと別れてはいけません」
チャンミンはなぜ、あんなことを言ったのだろう?
あの言葉から1年経っても未だに理解できない。
・
傍らに置いたスマホのバイブレーションで目が覚めた。
一瞬、自分がどこに居るのか分からなかった。
視線を落とすと、俺の脇腹に顔を埋めるようにして眠るチャンミンの横顔が。
腕枕のせいで、片腕が痺れていた。
チャンミンを起こしたくなくて、電源ボタンを押してやり過ごした。
ディスプレイに表示された妻Bの名前。
昼近くまで寝ているBにしては珍しいと思った。
ここで電話に出たらチャンミンを起こしてしまうし、健やかそうな寝顔をもうしばらく眺めていたかった。
昨夜はチャンミンのことで頭がいっぱいで、Bの話を途中で遮ってしまった。
今になってようやく、Bに対して悪いことをしたなと反省した。
Bは俺に話があると言っていた。
大した内容じゃないかもしれないが、妻の言葉は取りこぼしのないよう拾い上げてやりたい。
こういう小さな気配りの積み重ねが大事なのだ。
聞こえているのに聞こえないフリ、ささいな変化に気付かないフリ、気持ちのすれ違い、心の隙間が広がって、夫婦関係が修復不可能にならないよう...そうありたかった。
いい『夫』でいたい。
「あ......」
妻Bに対しても、依頼人のX氏に対しても、それからチャンミンに対しても、いい顔をしようとしている自分に気付いた。
うまく立ち回ろうとしていたのが、X氏との件で、俺がいかにチャンミンに参っていたのかが、明らかとなってしまった。
もちろん、Bのことは大事だ。
そこには但し書きがある...チャンミンの次に妻が大事、と。
はっきり認める。
チャンミンの首の下から、ゆっくり腕を引き抜いた。
マットレスを揺らさないようベッドから下り、床に脱ぎ捨てられていた衣服を身につけた。
靴を履きながら窓辺に足を向けて、カーテンの端から外の様子を窺った。
窓ガラスに雨粒が透明の筋を作っている。
「雨か...」
灰色の空はどんよりと暗く、今の俺の心情そのものだった。
眼下の通りに、傘をさした犬の散歩中の老人が歩いている。
俺が好きだと全力で求めてくるチャンミンの姿に、心打ち震えた。
同時に怖くなった。
それを全力で受け止めていいものなのかどうか、迷い始めていた。
俺の言うこと成すことで、チャンミンの10代の心を振り回せる力が俺にはある。
チャンミンの傷を癒し、彼がまずい立場にならないよう細心の注意を払わないと。
誰かが傷つかなければならない。
うまく立ち回ろうとしてはいけない。
眠るチャンミンの頬に口づけ、俺はこの部屋を後にした。
・
熱いシャワーが沁みた。
鏡に映してみると、肩甲骨の左右に3本ずつのミミズ腫れがあった。
俺に執拗に攻められたチャンミンが、腰に両足を絡めぶらさがり、絶頂に昂った時に付けられたものだろう。
酸素を求めてしゃくりあげ、甲高く喘いでいた。
きゅうきゅうに根元を締め付けて、俺の全てを搾り取ろうとしているかのようだった。
痛いくらいに。
静寂に耐えられなくて、ニュース番組を見るともなしに、バスタオルを腰に巻いた姿で、冷えたミネラルウォーターを煽っていた。
「はぁ...」
思考力の低下した寝不足の頭で、今後の身の振り方など考えられない。
今日はイベントの最終日。
閉会セレモニーと並行して、パーティが執り行われる。
この日の為に用意しておいたスーツとシャツをベッドに放り投げた。
昨夜はチャンミンの部屋で過ごしたため、ツインのベッドはどちらもしわひとつなくメーキングされている。
片方が今夜、Bが眠るベッドだ。
「...忘れてた」
さっきのBからの電話は、「駅まで迎えに来て欲しい」というものだったのだろう。
スマホを取り上げ、発信しかけた時、ドアチャイムが鳴った。
まだ7時だというのに、誰からだろう?
イベント関係者だったりしたら、バスタオル姿で応対するわけにはいかない、と大急ぎで下着とスウェットの上下に着替えた。
ドアの向こうに立っていたのは、チャンミンだった。
・
俺を睨みつけるのは、じとりと湿った三白眼だった。
「...チャンミン、どうした?」
チャンミンは俺に突進してきた。
「チャンミンっ...」
突き飛ばさんばかりの勢いで、俺の胸にタックルしてきた。
そして、ぐいぐいと俺を室内へと押していく。
「チャンミン?
どうした」
「どうしたって...義兄さんの方こそ、どうしたんです?」
「どうした、って...?」
ベッドに仰向けに押し倒された俺は、腰にまたがったチャンミンを見上げた。
ぞくり、と背筋に寒気が走る。
「...義兄さん。
おかしなことを考えていませんよね?」
「...おかしなこと?」
「僕と別れるとか...思っていませんよね?」
窓からの光が逆光になって、チャンミンの表情はうかがえない。
でも、泣き出しそうに歪んだ口元になっているのは分かった。
「俺は...チャンミンが大事だよ」
「僕のこと...大事...」
「ああ、そうだよ」
チャンミンは半身を伏せ、俺の唇を塞ぐ。
俺とチャンミンの舌が踊る。
チャンミンに誘導されたそこは、固く上を向いており、俺に触れられて彼の腰が小さく震えた。
この1年余りの俺は、どこかチャンミンに遠慮していた節があった。
チャンミンのプライベートに興味を持ったりしてはいけない、アトリエまで会いに来いと誘ったりもしなかった。
俺だって週に1度じゃ物足りなかったのを、敢えて押し隠していたのだ。
今回の出来事を境に、俺の顔色、言動のいちいちに神経質に反応するようになったチャンミン。
俺の逡巡を鋭いチャンミンは察したのではと、ヒヤリとした。
(つづく)
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