「俺が持つよ」
片手がふっと軽くなり、隣を見上げるとにっこり笑ったユノと目が合った。
「ありがとう」
「チャンミンに重いものを持たせられないよ」
ユノに取り上げられたその袋には、ミネラルウォーターのボトルがが2本入っているだけだった。
「僕を年寄り扱いしないで」
チャンミンは肘でとん、とユノの二の腕をついた。
「ははっ。
事実、年寄りじゃあないか?」
「初老と言って欲しいな」
買い物客で賑わう商店街。
ユノはチャンミンの背に手を添えて、人混みの中をさりげなくリードしていた。
「今夜は俺がご飯を作るよ」
「作るって言っても、レンジで温めるだけでしょ?」
「まあね。
冷凍ものの新商品を試したくて、さ」
「沢山買い込みましたからね」
「まあね」
チャンミンとユノとの年齢差は親子ほどあった。
いくらチャンミンが実年齢より若く見えるからといっても、ユノと並ぶと年の離れた兄弟に見える。
もっと意地悪な者の目には親子のように映っていたかもしれない。
でも2人は、そのことに頓着しなかった。
今の2人には互いのことしか見えていなかった。
この関係にユノは大満足だったし、チャンミンは開き直っていたから、人の目などどうでもよくなっていたのだ。
食事の後、チャンミンはソファに寝転がって、ユノはソファにもたれて、それぞれが気に入りの本を開いて眠くなるまで過ごす。(寒い季節は、ソファから炬燵へと場所を移す)
「若いころの話を聞かせてよ」
ユノはチャンミンの話を聞くことが好きだった。
チャンミンの口から語られるストーリーは、聞いている者を引き込む言葉選びと、最後のオチへともっていく話運びが巧みなのだ。
「もう面白い話は出尽くしました」
「面白くなくていいから。
そうだなぁ...25歳の時の話をして?」
「25歳ねぇ...大昔過ぎる」
ページから目を離さずにいるチャンミンに焦れて、ユノは彼の眼鏡を取り上げた。
「それがなくちゃ、本が読めないでしょう?」
「小話をひとつしてくれたら、返してあげるよ。
チャンミンの眼鏡...かけてると気持ち悪くなる」
「老眼鏡だからね」
渋々といった風にチャンミンはソファに座りなおし、「25 歳の時か...」と遠い記憶を辿る。
そして、「25歳と言えば、今のユノと同じ歳なんだ」と、ひやりとした感覚に襲われた。
「もっと若かったらねぇ」
「チャンミンが若かったら、俺は相手にしなかったよ」
「僕じゃなくて、ユノの方が?」
「そうさ」
「年増好きなんだ?」
「俺は頑張りたくない怠け者なんだ。
それから、甘ったれ。
安心したいんだ」
背中を向けて眠るチャンミンを後ろから抱きしめた。
「年上の男は、安心するの?」
「年上だからいい、っていう意味じゃないよ。
チャンミンといると...のんびりできるんだ。
俺は大勢でいるのが好きな質だけど、やっぱり寂しいんだ。
チャンミンといると、一人でいる時と同じくらい楽でいられて、そして寂しくない。
最高だ。
チャンミンとは相性がいい、と思っているよ」
「そう...」
「例えば、チャンミンが今の俺と同じ25歳だったとしたら...。
さっきはあんなことを言ったけど、チャンミンは俺のことなんか相手にしないだろうなぁ」
「そうかなぁ?」
「そうさ。
俺は退屈な男だから」
「いつか刺激が欲しくなるんじゃないですか?」
「刺激?
刺激なんか欲しくない」
「そうは言ってもねぇ...。
いつか、スタイル抜群の若い子がよくなるんじゃないの?
ほら、ユノがたまに見てるでしょう?
裸の女の子がいっぱい載ってるサイト」
「あー!」
「PCを開きっぱなしにしているユノが悪い」
「一応、俺は男だからな。
目の保養」
チャンミンは、悪びれずそう言うユノのことが好きだった。
以前のチャンミンは、初老の自分を恥じていたが、今はそう思わなくなっていた。
チャンミンの友人たちは、若すぎる恋人の登場に眉をひそめて、「財産狙いじゃないの?」と忠告した。
財産らしい財産なんてないんだし...確かに同世代の平均より多い収入はあったが...。
「僕より、彼の方がリッチなんだ」と返すと、友人たちは何も言ってこなくなった。
2,3年前まで俳優をしていたと言っていた。
TVも映画も観ないチャンミンは、活躍するユノのことを知らなかったのだが...。
「俺が先に死んだら、チャンミンに全財産を譲るからな」と、ユノは冗談めかしたことをしょっちゅう口にし、
チャンミンが「ユノより僕の方が先に死ぬ確率の方が高いでしょう?」と返すと、
「それは困るから、せいぜいチャンミンには長生きしてもらうよ」と言って笑うのだった。
「もし...。
俺が誰か...例えば若い女の人のところに行っちゃったら、チャンミンはどうする?」
「どうするも何も、また一人の暮らしに戻るだけ」
チャンミンはユノとの関係に、深すぎる情を注いではいなかった。
これが唯一の恋でもあるまいし、今まで経験してきた関係のひとつに過ぎない。
激しすぎる感情のぶつかり合いはもう御免だった。
勘当、結婚、失業、大病、離婚、嫉妬、不倫、死別...。
ジェットコースターのようだった人生からもう、卒業したかったのだ。
年齢的に相当早いけれど、気分は隠居生活だった。
そこに降って湧いてきたのが、ユノという青年。
正直、最初のうちはユノの存在は、暮らしを乱す雑音そのものだった。
次第に、チャンミンの中で刻むテンポと求める空気の濃さが、ユノのそれと同じであることが判明してきた。
チャンミンの住む一軒家に出入りするようになり、気付けば一緒に暮らしていた。
・
「寂しいことを言ってくれるんだなぁ?」
「『一人に戻る』...そのままでしょ?」
「チャンミンにとって俺は、その程度の男なんだ?」
「『その程度の男』だと思われたくなければ、そういう仮定の話はやめましょうね」
「ははっ!
そうだね、そうする。
...でも、もし俺に他に好きな人が出来たとするよ。
その人のところに行ってしまう前に、俺はチャンミンに毒を盛るかもしれない。
チャンミンの好きなワインなんかにこっそり入れて」
「殺人事件になっちゃうよ?」
「チャンミンを一人にしたくないし、一人になったチャンミンを誰かに盗られたくない」
「怖い子だ」
「そうさ。
俺は、怖い男だ」
「平和そうに見えて、利己的だね」
「そうだよ~。
安心していいよ。
他の人とどうこう、なんてあり得ないから」
ユノの最後の一言を、チャンミンは疑っていない代わりに、期待もしていなかった。
自分はこれまで散々頑張ってきた。
これからは人間関係で思い煩うことなく、一人で好きなようにのんびりと暮らしたいだけだ。
そこにユノという伴走者があらわれただけのこと。
だから、ユノとチャンミンの関係性は恋人というより、『友人同士』に近いものかもしれない。
どっちでもいい、とチャンミンは思っていた。
・
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
ユノは、チャンミンのたるみかけたお腹をふにふにと指先で弄ぶことが好きだった。
(もっとしわくちゃになってしまえばいいのに。
誰一人、チャンミンを恋愛対象として相手にしなくなればいいんだ。
そうすれば、俺が独り占めできる)
ユノの重みを背中いっぱいに感じながらチャンミンは、
(この子の好きなようにさせておこう。
この子にも過去があったんだろうな。
ぞっとするほど怖い、寂しい表情を見せたことがあったから。
僕の帰宅に気付かず 鍋の中身をかき回していたユノの表情がそうだった。
声をかけられる雰囲気ではとてもなく、僕は忍び足で玄関へ戻った。
そして、いつになく騒々しい音を立てて「ただいま」と帰宅したのだ。
僕を出迎えたユノは、いつもの彼の顔になっていて、後ろめたい気持ちになった。
見てはいけないものを見てしまった、と)
チャンミンの下腹を撫ぜているうちに、ユノのまぶたは重くなり、じきに寝息が聞こえてくる。
(後編につづく)
[maxbutton id=”23″ ]