(42)時の糸

 

 

「参ったな...」

チャンミンは途方にくれていた。

足首まで水に浸かっていた。

サーサーいう音が、コンクリート作りの室内に反響している。

天井から水が落ちてきて、壁にも水が伝っている。

水位は徐々に上がってきており、スニーカーを履いたつま先が冷たさで凍えていた。

タブレット画面を幾ページもスクロールしてみたが、具体的な対処方法を見つけることができない。

(頼りにならないマニュアルだ)

昼間、Tに指摘されてドーム内を巡るパイプやバルブを1つ1つ確認してみたが、そのどれもが異常なしだった。

それならと、ポンプ室に向かったらこの有り様だった。

出勤した時点では、天井から水がしたたり落ちてもいなかったし、こんな風に床が水びたしにもなっていなかった。

チャンミンは、脚立に上って天井を走るパイプの1本1本を、タンクのバルブ1つ1つを丁寧に見たが、そのどれもが水源ではないことを確認できただけだった。

タンクの底に亀裂があるかもしれないと、床に這いつくばってもみた。

(そういえば、音がいつもよりうるさかったような気もする。

苛立ちの原因を追究するのに忙しかったから、気づかなかったのか?

給水パイプのどこかが詰まって、水を送り出す給水タンクに負荷がかかったせいだろうか?

それなら、もっと早い段階で分かるはずだし...)

首をひねっているうちに、天井から滴る水がチャンミンの髪と肩を濡らしていく。

地下にあるポンプ室は、暖房機器もなく、普段からじめじめと冷気が満ちている場所だ。

足元は水に浸かり、雨のように降り注ぐ水でびしょ濡れで凍えそうだった。

チャンミンは、ポンプ室入口のコンクリート製の階段に腰かけた。

階段を2段登った上に、スチール製のドアがある。

(今夜はこのままにしておいて、あとは業者に任せようか)

水かさは、チャンミンのふくらはぎまで到達している。

部屋の片隅でほこりをかぶっていた排水ポンプ見つけて、一瞬、助かったと安堵したが、ポンプに取り付けるホースが見当たらなかった。

役立たずの排水ポンプを、苦々しい気持ちで睨みつける。

「はぁ」

チャンミンは濡れた前髪をかき上げて、濡れて重くなったジャケットを脱いだ。

壁にかかった、気温計を見やる。

薄いTシャツ姿は摂氏7℃にはふさわしくないが、着ている方がかえって冷えてしまう。

(このままじゃ、また風邪をひいてしまう)

「よいしょっと」

両ひざをてこに立ち上がろうとした時、

「!」

ガツンと後頭部を殴られたような衝撃が走る。

勢いで前のめりになったチャンミンは、冷たい水の中に四つん這いになってしまった。

不意打ちと痛みで両手で頭を抱えていると、背後から声がする。

「チャンミン!」

振り向くと、目を真ん丸にしたユノがいた。

 

 

 


 

ドーム内を、チャンミンを探して駆けずり回っていたユノ。

 

「あ!」

 

毎朝チャンミンが、点検のため降りるこのポンプ室のことを思い出した。

案の定、地下へ続くハッチが開いていた。

(やっぱり!)

穿たれた暗くて深い穴の中へと、シンプル極まりない梯子を1段1段下りていくのは、高所恐怖症のユノにとって、勇気のいる行為だった。

(ったく。

こんな穴倉でチャンミンは何やってんだ?)

足が最後の1段から、地面に下り立つと、ユノは緊張と恐怖でガチガチだった身体の力を抜くことができた。

「ふう...」

胸をなでおろす。

「チャンミーン!」

 

ポンプ室までの十数メートルの廊下は、無人だ。

(部屋ん中で、倒れてるんかな?)

四面がコンクリート製の廊下は、壁に設置された小さな電灯だけで薄暗い。

(なんの音だ?)

梯子を下りていく時も気付いていたが、サーサーと雨が本降りの時のような音がしている。

下へほど、その音は大きくなっていった。

「チャンミーン!」

チャンミンを呼ぶ声が、廊下に響く。

(不気味な場所だな)

ポンプ室のスチール製のドアは突き当りだ。

(叫んでも、中には聞こえんか)

錆と塗装のはげが目立つドアのレバーをつかんで、引っ張る。

(開かん!

鍵がかかってるのか!?)

焦ったユノは両手でレバーをつかんで、力いっぱい引っ張った。

(ドアを壊すものがいる!

​クワか?

スコップか?

​幸い、農道具はなんでも揃ってるから助かった!)

 

地上へ引き返そうとしたユノは、はたと気付いた。

(俺は、おバカさんか)

レバーをつかんで押と、重いスチールドアは抵抗もなく開いた。

ほっとしたユノは、ドアをもっと開けようとする。

「ん?」

ガツンと鈍い音がして、何かにつかえてこれ以上開かない。

開いた隙間から中をのぞく。

「チャンミン!」

Tシャツ姿のチャンミンの背中が見える。

頭を抱えながら振り返って、ユノの方を睨みつけていた。

「ごめんごめん!」

慌ててユノはチャンミンの元へ駆け寄るが、すぐに異変に気付いた。

「冷たっ!」

ステップから踏み出した足の冷たさに驚き、周囲を見回した。

(おいおいおいおいおい)

「なんだよ、これは!」

部屋中水浸しだった。

水が天井から落ち、壁を伝っている。

その中で、膝をついたチャンミンは腰まで水に浸かっている。

「なんで?」

「知るかよ!」

差し出したユノの手を、パチンと振り払ったチャンミンはゆらりと立ち上がった。

「ごめんな、痛かったよな?」

後頭部をさするチャンミンを見て、ユノは謝る。

「まさか、あんたがいるとは思わなくてさ」

「......」

(まずいな、まだ怒ってる)

むっつりと背を向けたチャンミンの背中を見て、ユノは不安な気持ちになる。

(喜怒哀楽の「怒」が前面に出ちゃってるなぁ。

​なにか腹が立つきっかけがあったのかなぁ?

​何だろ?)

 

一方チャンミンは、昼間ユノに会ったら謝ろうとした気持ちを忘れてしまっていた。

ユノの顔を見たら、苛立ちの気持ちが湧いてきてしまうのだった。

 

 

 

(つづく)

 

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