~民~
仕事の合間をみて、ここまで来てくれたんだ。
素直に嬉しかった。
嬉しかったけど、私の手首を痛いくらいにつかんで引っ張って行くチャンミンさんの行動にはクエスチョンマークでいっぱいだった。
チャンミンさんが怒っている。
「チャンミンさん!
痛いです!
ストップ!
ストップです!」
ロビーを抜けてスタンド席の階まで上がったところで、チャンミンさんは歩を止めた。
2階ロビーは人気がなく、がらんと静かだった。
「チャンミンさんったら、どうしちゃったんですか?」
私は赤く指の跡がついた手首をさする。
チャンミンさんは私に背を向けたまま「ごめん」とつぶやいた。
白いワイシャツを着たチャンミンさんの背中が怒っていて、「怒らせるようなことを何かしたっけ?」と考えを巡らしてはたと気付く。
「どうして僕に黙っていたの?」
振り向いたチャンミンさんの顔が怖かった。
「それは...」
言えるわけない。
ユンさんに会いたくて、ユンさんの元で働きたくて都会まで出て来た、だなんて。
浅はかな奴だって、チャンミンさんに軽蔑されそうで。
私を疑わしそうな眼で見ていた。
「求人が出ていたんです。
私は何も資格を持っていないし、出来ることも限られているし...雑用なら出来ると思って...」
嘘をついてしまった。
「ホントにそれだけ?
ユン、じゃなくて...ユンさんに声をかけられたとか、そういうんじゃないよね?」
「違います」
また嘘をついてしまった。
どこまで本気だったのかは分からないけれど、「俺の元で働かないか?」と誘われたのは事実だ。
私はその誘いを鵜呑みにした。
チャンミンさんは私の次の言葉を待っている。
「面接の時、ユンさんは信用できて、いい人そうでしたし...。
お義姉さんのことや、コンテストのことも配慮してくださって...。
失敗することもありますけど、ユンさんは根気よく教えて下さって...」
言い訳めいていて、まるで悪いことをしていたみたいな心境だった。
大きく息を吐くとチャンミンさんは、
「アシスタントって...そういうことだったんだ...」
「はい...」
「民ちゃんはそれでいいわけ?
雑用係でいいわけ?」
チャンミンさんの言葉に悲しくなってきた。
チャンミンさんは何に怒っているんだろう。
勤め先を詳しく教えていなかったことに?
勤め先の社長がユンさんだということに?
それとも、雑用係で満足している私を?
「私はコンビニとか、電化製品店とか、スーパーとか、居酒屋とか...店員さんしかしたことがないんです。
次は違う仕事を経験してみたかったんです。
お客さんがきたらコーヒーをお出ししたり、電話に出たり、コピーをとったり...。
そういう仕事をやってみたかったんです。
...雑用係は駄目ですか?」
この言葉は本当だ。
鼻の奥がつんと痛くなってきた。
つくづく人に誇れる特技がなくて、これだと打ち込める何かもない自分が情けなかった。
私のどこを見込まれたのかは、皆目わからない。
「君に来て欲しい」とユンさんから誘われて、私は心底嬉しかったのだ。
チャンスをくれたユンさんに感謝の気持ちでいっぱいだったのだ。
「民ちゃん...」
こぼれ落ちそうな涙を、チャンミンさんの親指でぬぐわれた。
「雑用係が悪いって言っているんじゃないんだよ。
何も知らされていなくて...びっくりしたんだ」
「内緒にしてるつもりはなかったんです。
チャンミンさんがまさかユンさんと知り合いだったなんて、知らなくて...。
ユンさんのところで働くのはそんなにいけないことですか?」
「いけなくはないけど...」
ユンさんとは仕事上の付き合いだと言っていたけど、何かトラブルでもあったのだろうか?
私とユンさんが立ち話をしていた時、急に現れたチャンミンさんは険しい表情をしていた。
それに「ユンさん」の名前を聞くと、チャンミンさんは苦々しい顔をしているから。
だから、仕事内容にモデルになってポーズをとることが含まれているなんて、チャンミンさんには言えない。
チャンミンさんに対して嘘をついている自分が嫌だった。
「泣かないで。
メイクが落ちるよ」
「はい」
「僕の知り合いのところに勤めていると知って、びっくりしただけだ。
もう怒ってないよ」
「よかった、です」
「座ろうか?」
チャンミンさんに腕を引かれて、2人で階段に腰掛けた。
「ねぇ」
チャンミンさんの声音が優しくなった。
「民ちゃん...とても綺麗だったよ」
「ホントですか?」
「ああ。
鳥肌がたった」
チャンミンさんはそう言って腕をさすって見せた。
「ランウェイを歩くことになるなんて...ひょこひょこしててカッコ悪かったでしょう?」
「全然。
姿勢もよいし、堂々としていて...いつもの民ちゃんだった」
「嬉しい、です」
チャンミンさんに褒められて、体温が1℃上がったみたいに身体が熱くなった。
きっと私の耳は真っ赤になっている。
「お仕事中なんでしょ?
こんなところにいて、大丈夫ですか?」
「昼休み中だから、大丈夫。
どうしてもひと目見たかったんだ」
チャンミンさんのうっとりと細めた目元が優しくて、私の胸は温かいもので満たされる。
窓から降り注ぐ日光に照らされたチャンミンさんの顔が、彫刻像みたいに整っていて見惚れてしまった。
見慣れてるはずのワイシャツ姿も、カッコいいと思った。
「民ちゃんはいつ帰って来るの?」
「明日には帰って来られます」
「今日じゃ駄目なの?」
「へ?」
「今夜、帰っておいで」
「でも...荷物はお兄ちゃんのところに置いたままだし...」
「明日取りに戻ればいいよ。
民ちゃんならパンツ1枚あれば大丈夫でしょ?」
「ひどいですー」
「ははは!
今日は何時に終わるの?」
「え...っと、大会は15時には終わります。
その後、サロンに戻って髪を染め直してもらいます。
そうだ!
ねえ、チャンミンさん。
何色がいいと思います?」
チャンミンさんは顎に手を添えてうーんと唸りながら、私の顔と髪を交互に見る。
「明るい茶色か、赤っぽい色、かな?
そっちの方が民ちゃんに似合ってると思う。
今みたいに青いのもいいけれど...近寄りがたいというか、顔色が悪くみえるというか」
「赤みがかかった色の方が似合うって、Kさんも言ってました、そういえば」
何もかもが嬉しくてくすぐったい。
「今夜、帰っておいで」
念を押すようにチャンミンさんが私を覗き込んだ。
(つづく)
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