~ユノ34歳~
「ユノ?」
Bの手が俺の腕に触れて、上の空になっていた自分に気付く。
「ああ、ごめん」
「疲れがたまっているのね。
しばらくはゆっくりしたら?」
「そうだね...それが出来ればいいんだけど」
イベントが終われば、納期を遅らせてもらっていた仕事が待っている。
中断していた作品作りも完成させなければならなかった。
それから、X氏との今後の付き合い方についても、一度話し合う必要があった。
ミントカラー(複雑な名前のカクテルだ)のグラスに口をつけた。
俺とBはホテルのバーにいた。
最上階のラウンジバーを選択しなかったのは、俺の中の微かな抵抗心のせいだった。
コンベンションセンター7階でチャンミンと交わっていた時、彼の揺れる背中越しに窓外の景色があった。
俺たちが宿泊しているホテルが50メートル先にあった。
コンベンションセンター利用者の多くは、地下通路で繋がっているこのホテルに宿泊する。
そして今宵、50メートル先のコンベンションセンターを臨みながら、妻Bと酒を飲む。
大したことのないこだわりに過ぎないが...それは嫌だった。
「こんな薄暗いところ...陰気だなぁ...」
地階のバーに案内されてBは不服そうだった。
いつもならBの希望最優先に動く俺だったが、今夜に限っては自身の希望を通させてもらった。
店内の色彩は、黒い影とオレンジのランプの色のみで構成されている。
「陽」の姉に対して、「陰」のチャンミン。
妻Bとその弟チャンミンの間に挟まれ、行ったり来たりしている自分が滑稽で情けなかった。
どちらかを選ぶか、それとも...。
「お疲れ様」と、グラスを掲げたBは相変わらず美しい女だった。
彼女は、妻なのだ。
「Bのどこに惹かれたのだろう?」と、自分を問う気持ちはなかった。
俺はBに幻滅したわけでも愛想をつかしたわけでもない。
妻Bの魅力を軽々と飛び越えてしまう、圧倒的な存在と出逢ってしまっただけ。
世にいう『浮気』だ。
当たり前の事実に、これで何度になるか...黒々とした罪悪感が胸を重く塞いだ。
ランプに照らされたBの片頬はオレンジに、もう半分は陰で黒く塗りつぶされている。
「話って?」
昨夜からBは俺に話しがあると、言っていた。
いつもなら電話口やメール1本で済ましていたBが、面と向かって話したいとは、余程のことだと警戒した。
話の内容が全く予想つかない。
二人きりになれる時と場所を選んだあたり、欲しいものをねだるわけではなさそうだ。
だからこそ、俺は警戒した。
妻相手に警戒するなんて...俺の気持ちがすでにBから離れてしまった証拠なのだろうな。
・
昼間の出来事を思い返していた。
ことの後のことだ。
脱ぎ捨てた洋服を1枚1枚手渡してやり、チャンミンの着替えを手伝った。
「義兄さんは会場に戻ってください。
あとはひとりで平気です」
「そういうわけには...」
チャンミンの後ろに目をやったのは、彼の中に放ったものが心配だったからだ。
「ウォシュレットがあるので。
僕は平気です」
「...そうか」
チャンミンはコートを羽織ると、
「義兄さんは会場に戻ってください。
僕は、帰ります」
俺は乱れたシャツをしわを伸ばしてスラックスにたくしこみ、ベルトを締めた。
俺は何をしていたんだろう。
今さっきまでの行為は後悔していたが、『1年待て』の言葉については、伝えてよかったと思った。
先延ばししていた答えが今日、言葉にできてよかった、と思った。
「姉さんの元に戻って下さい」
そう言ってチャンミンは、哀し気に微笑んだ。
・
俺はチャンミンと別れるつもりだった。
この行き止まりの恋で、未来のない関係をチャンミンに強いり、もがき苦しむ彼の姿を見たくなかった。
X氏との一件で傷つき、俺からの愛情を失うのではと怯えたチャンミンのために、あのタイミングで別れを告げるのは酷過ぎる。
昨夜までの俺が出していた答えはそれだ。
口にしかけた言葉を飲み込んでしまったのは、健やかに眠るチャンミンの寝顔を目にしたから。
乱れた前髪を梳かしつけた。
実は。
もうひとつの答えがあったのだ。
二人の間で立ち回るなど、何様だ。
チャンミンを手放して、Bとの結婚生活に戻る。
チャンミンを獲って、Bとの結婚生活を破綻させる。
どちらか一方を獲ることなど、俺にはできない。
チャンミンとB、両方を手放し、その場から立ち去る。
チャンミンに別れを告げて、Bの元に戻ることはできない。
Bへ抱く愛情と、チャンミンへのそれとは違う。
いずれにせよ、『今すぐ』は時期が悪い。
ところが、今朝のことだ。
チャンミンとBをひとつ部屋で、目の当たりにして気持ちが変わった。
昨夜、飲み込んでしまった答えが、180度ひっくりかえった瞬間でもあった。
平静を装うとするチャンミンがいじらしかった...まだ17歳なのに。
『1年待て』と、チャンミンに頼んだ。
計算高い自分に嫌気がさした。
でも、こうでもしないと、正面に立ちはだかる壁を乗り越えられないのだ。
・
「ユノ。
...私」
テーブルに乗せた俺の手は、Bの手で包み込まれた。
本物の石がはめ込まれた本物の金属製のリングをいくつも重ね付けした、労働を知らない白く細い指。
結婚指輪はしない、と夫婦で取り決めていた。
「あなた、最近変でしょう?」
「そうかな?」
チャンミンとの関係を感づかれたかと、体温が下がった。
でも、チャンミンは義弟にあたるし、高校生で...何より男だ。
それはない。
Bに気付かれないよう、唾を飲み込んだ。
「上の空、なの。
一緒に暮らしているのに、夫婦なのに。
あなたが遠いな、って」
「...すまない。
疲れが溜まってるのかな」
真顔のBから目を反らしたいのを、必死で堪えた。
「私。
引っ越しがしたい」
「えっ...!?」
今住んでいる部屋は、何軒も探し回った末に、二人で決めたところだった。
地上30階、素晴らしい眺望、広いリビング、寝室の他に衣装持ちのBのための一室があった。
「街中じゃなくて、少しだけ郊外に近いところ。
あなたなら仕事場がどこにあっても構わないでしょ?」
「その通りだけど」
「もう一部屋か二部屋多いところにしましょう。
今のところは手狭になるから。
...ほら、私たちもそろそろ。
ね?」
Bが何を示唆しているのか、理解するまで十数秒必要だった。
(つづく)
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