~冬~
チャンミンと出逢った時、私は12歳だった。
ある吹雪の夜、この家の家主であり私の保護者でもあるユノさんが連れ帰ってきたのだ。
ユノさんは動物園で飼育員をしていた。
仕事着である灰色のつなぎ姿は、いつもケモノ特有の匂いを漂わせていた。
ユノさんが動物を連れ帰ってくることは珍しいことではない。
母親から育児放棄されたワラビー、仲間外れにされたミーアキャット、喧嘩の末、羽を骨折したオオコウモリ...。
狂暴で懐かなくても、糞尿で匂っても、あくまでも動物園の檻の中へ戻せるまでの期間限定のことだったため、イベントのひとつとしてそのお世話を私は楽しんでいた。
餌やりや檻の清掃、大型動物の保定といった力仕事で、ユノさんの腕は太く逞しい。
そんなユノさんの腕の中に、バスタオルにくるまれた『それ』はいた。
ラグの上に寝そべって本を読んでいた私は飛び起きて、ユノさんの腕の中のものを覗き込んだ。
私の傍らで眠っていた雑種の老犬タミーも、のそりと起き出してユノさんの足元へ寄ってきた。
タミーは一日中眠っているのに、大好きなユノさんが帰宅するとパチッと目を開けて、長い尻尾をゆっさゆっさ振るのだ。
その夜は、よそのケモノの匂いがするものだから、尻尾の振りがいつもより早い。
バスタオルの隙間から肌色の鼻がのぞいていた。
指を近づけると、匂いを嗅ごうとひくひくと蠢いた。
「噛みつく?」
「噛みつくだろうね」
私は慌てて指を引っ込めた。
「まだ歯は生えていないから、噛まれても痛くないよ」
「赤ちゃんなの?」
「生後2週間だ。
毛布をもっておいで。
この子を下ろすから」
『それ』を見下ろすユノさんの目は優しい。
生命を持つものに注ぐユノさんの眼は、とても優しい。
私を見つめる目ももちろん、優しい。
「寒いのかな。
...それとも怖いのかな」
「両方だろうね」
ユノさんの腕の中で『それ』はぷるぷると震えていた。
「もっと薪をくべようか?」の声に、私はストーブに太い薪を詰め込んだ。
今回はどんな動物のお世話をするのか、私はわくわくしていた。
バスタオルがのけられた時、私は絶句した。
「今日から君がママだ」
言葉を発せずにいる私に、ユノさんは肩を叩いて繰り返した。
「この子のママは君だ」
「...自分が?」
「そうだ」
「...変なの。
ねぇ、ユノさん。
この子は何ていう動物なの?」
「それが分からないんだ」
ユノさんは困りきった顔をして肩をすくめた。
「動物園にいたんでしょ?
それなのに、分かんないの?」
「アルパカの檻にいたんだ、ある朝突然。
誰にも知られずに妊娠していて、ひっそりと産み落とされた子ってことはあり得ない。
アルパカは全頭雄だし、見ての通りこの子はアルパカじゃない」
「...そうだね」
「母親が分からないんじゃ、正しい檻に戻すこともできない。
飼育員部屋で世話をしていたんだが、警戒心が強くてね、満足にミルクも飲まない。
このままじゃ衰弱死してしまうから、連れ帰ったんだ」
遠巻きに見ていた私は近寄って、毛布の上でふるふる震える小さな生き物を近くから観察した。
タミーは興味津々で、『それ』の匂いをくんくん嗅いでいる。
タミーはよく出来た犬だから、吠えたり噛んだり絶対にしないのだ。
「飼育員のひとりが試しに、子ヤギを産んだばかりの母ヤギにあてがってみたんだ」
「どうだった?」
ユノさんは首を振り、『それ』の耳の下を指で指した。
血が滲んでおり、ヤギの親子に拒絶されたんだろうと、ユノさんの説明がなくても察せられた。
「何を食べるかも分からないの?」
「今はミルクだね。
大きくなったら何を食べるんだろうね」
「ユノさん、調べてくれないの?」
「ママになった君の仕事だよ。
この子は何が好きで、何が苦手なのか、注意深く観察して見つけるんだ」
「名前を決めないとね」
私は何てつけようかなぁと、視線を彷徨わせかけたとき、
「名前はもう決まってるんだ。
『あの子』や『それ』じゃ不便だったから、俺が付けた」
と、ユノさんは言った。
名付け親になりたかった私はがっかりした。
「この子は『チャンミン』だ」
「...チャンミン...」
「ああ。
いい名前だろう?」
ユノさんはニコニコとご機嫌で、ストーブの上でしゅんしゅん音を立てていたヤカンを下ろした。
「バケツを持っておいで。
それからタオルも」
私は雪が吹きすさぶポーチへバケツを取りに行き、バスルームからタオルを抱えてリビングへ戻った。
ユノさんはぐらぐらに沸いたお湯をバケツに注ぎ、ちょうどよい湯温になるまで水を加えるごとに、指で湯温を確かめていた。
「よし」と頷いたユノさんは、タオルをお湯に浸してゆるく絞った。
ホットタオルでこの小さな生き物...チャンミンの身体を拭いた。
足先とお腹、尻尾についたウンチ汚れを拭き取った。
お湯を取り換え、別の綺麗なホットタオルでチャンミンの頭と背中をごしごし拭いてやった。
肋骨が浮き出るくらいやせ細っていて、頭ばかり大きく見えた。
チャンミンは気持ちよさそうに、まぶたを半分閉じている。
「チャンミンは君のことを気に入ったようだね」
「そうかな?」
「飼育員の誰にも心を許さなかったんだ。
歯のない口で噛みついたり、唸ったりしてさ」
「そっか...チャンミンにはママがいないんだね。
自分が何なのかも分からないなんて...。
可哀想だね」
チャンミンの頭に手を置いた。
私の手の平に、チャンミンの真ん丸の頭蓋骨がぴったりとおさまった。
(つづく)
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