~冬~
「ミンミン!」
「今、起きたところ!」
ユノさんは私のことを『ミンミン』と呼ぶ。
蝉の鳴き声みたいであまり好きじゃない。
山のふもとに建つこの家に、初めて訪れたのは夏の盛りの頃だった。
蝉の声が頭の中でじゃんじゃんと鳴り響き、耳鳴りを疑う程のやかましさだった。
初めて会ったこの夏の日を記念して、ユノさんはふざけ半分で私を「ミンミン」と呼び、いつしかその呼び名が定着したのだ。
返事をしないとユノさんは、「ミンミンミンミン」とずーっと呼び続けるから、私は一回で応答するようにしている。
私はチャンミンを抱いて、寝室を出た。
・
「チャンミンにミルクをあげよう」
早起きのユノさんは既につなぎ姿で、朝食も終えていた。
飼育員の出勤時間は早いのだ。
私の為にテーブルには、牛乳とパン、ゆで卵が用意されていた。
餌をねだるタミーがユノさんの足元で、伏せの姿勢をとっている。
ストーブの上にミルクパンがあるのを目にし、「チャンミンは牛乳を飲むの?」と尋ねた。
「牛乳はお腹を壊したんだ。
ヤギのミルクがチャンミンの胃袋に合うみたいだ。
園からヤギ乳をもらってきたよ...冷蔵庫に入れてある。
それをひと肌に温めてあげるといい」
「あ!」
お腹の辺りがジワリと温かくなり、抱いたチャンミンから身を離すと...やっぱり!
パジャマがぐっしょり濡れていた。
「チャンミンがお漏らしした!」
「ははは。
そういえば昨夜からおしっこをしていなかったからね」
「トイレはどうしよう?
トイレの場所を覚えるかなぁ?」
「チャンミンならすぐに覚えるだろうよ。
頭が大きいから賢いだろうね。
でも、この子は未だ赤ちゃんだから、当分は無理だろう」
「おしめをすればいいかな?」
「それじゃあ、お尻が蒸れてしまって可哀想だ。
ぐるぐる歩き回り始めて、床をくんくん嗅ぎ出したら、おしっこのサインだ。
腰を落としたらウンチのサインだ。
チャンミンの様子をよく見ていれば、分かるよ」
「犬みたいだね」
ユノさんは私とチャンミンの頭を撫ぜると、弁当の入ったバッグを肩にかけた。
学校に通えない私は一日、家にいるから、チャンミンのお世話はちゃんとみられるのだ。
「いってらっしゃい」
ユノさんはとても背が高く、私の頭は彼の胸のあたりにある。
ユノさんが乗った真っ赤なトラックが見えなくなるまで、私は見送った。
チャンミンと二人きりの一日が始まった。
(タミーもいるけれど、彼は放っておいても大丈夫なのだ)
・
さて、どうやってチャンミンにミルクをあげようか、と考え込んでいた。
お皿に入れたミルクを、舌で飲むにはまだまだ幼過ぎるようにみえる。
ユノさんがミルクの与え方を教えてくれなかったのは、敢えてのことだ。
私はチャンミンのママなのだ。
警戒心が強いと聞かされていたけれど、実際のチャンミンは怖いもの知らずのようだ。
床にねそべったタミーの匂いを嗅いでいる。
チャンミンの黄金色の尻尾は太く短く、毛先だけが白い。
緊張と好奇心で、ぴんと水平に伸ばしている。
「チャンミン、おいで」
名前を呼ぶとパッと振り向いたところをみると、ちゃんと自分の名前を認識しているようだ。
チャンミンは短い脚でよちよちと、両手を広げ待つ私の元へと向かってくる。
短い尻尾をぷりぷり振っている。
チャンミンの爪が木の床を、カチカチと鳴らしていた。
「お腹が空いたでしょう?」
私の腕の中におさまったチャンミンは、肥満したモルモットより大きく、成猫より小さい。
太い脚は大きくなる証拠だと、以前ユノさんが教えてくれた。
太ももの間にチャンミンを後ろ向きに抱きかかえ、ミルクパンに浸した指をチャンミンの鼻先に近づけた。
間髪入れずチャンミンは、私の人差し指を咥え、ちゅうちゅうと吸った。
その吸引力に、よほどお腹が空いていたんだね。
ミルクで濡れた指を、何度もチャンミンに吸わせた。
チャンミンの2本の短い前脚は、私の手首を抱えている。
チャンミンの上顎のくぼみに私の指はぴったりフィットしていた。
もっともっと欲しいと口をパクパクさせている。
こんなやり方じゃ、お腹いっぱいにミルクを与えられない。
チャンミンをいったん床に下ろし、台所の戸棚を漁った。
「確かこの辺に...あった!」
目当てのものは注射器だった。
赤ちゃん動物を一時的に預かった際、ユノさんが使っていたものだった。
ミルクパンのミルクを吸い上げ、チャンミンに咥えさせた。
チャンミンのペースに合わせて、慎重にピストンを押していく。
ちゅっちゅちゅっちゅと一心不乱にミルクを吸っている。
注射器のミルクはあっという間に空になった。
チャンミンは私の手首を小さな足でふにふにと揉んでいる。
母親のおっぱいだと思ってるんだね。
あらたにミルクで満たされた注射器を、口元に持っていく。
すかさずチャンミンは咥えた。
これを何度も繰り返した。
吸いながら、チャンミンの眼はまぶたで半分覆われていった。
まぶたが落ちた途端、ハッとして眼を開ける。
ミルクは飲みたいし眠いし、その狭間でチャンミンは戦っているようだった。
ミルクパンが空になる頃には、チャンミンは完全に眠ってしまった。
長い長いまつ毛が震えていた。
そうだよね、チャンミンは赤ちゃんだから。
お腹がいっぱいになったら眠くなるよね。
脱力した身体を私に預け、健やかに眠るチャンミンが可愛いと思った。
・
本棚から動物図鑑を抜き取った。
これはユノさんのもので、子供向けではない専門書に近いものだった。
チャンミンと似た特徴の動物を探して、何ページもめくってみてもどこにも見当たらなかった。
私の膝の上でお腹を見せて眠っているチャンミン。
ピンク色のお腹は産毛程度しか生えておらず、呼吸に合わせて上下している。
「あ...!」
どうして今まで確かめてみようと思わなかったのか。
お腹の下あたりのつつましやかな突起を確認し、チャンミンは雄だと知った。
(つづく)
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