~冬~
あいつだった。
1年前、ユノさんにこの家から追い出された、あの男だった。
男はポーチの影から現れた私に気付き、驚いてみせた後、笑顔になった。
「あいつにいたずらされていないか?」
男はひとりじゃなく、連れがいた。
「声が出せないんじゃあ...可哀そうに。
お前じゃあ、あいつの好みじゃないから、それはないか?」
ぎゅっと唇を噛みしめた。
1年近くの間、この男に懐いていた自分が馬鹿みたいだった。
私の後ろでチャンミンが「くるるる」と喉を鳴らす音が聞える。
「噛みついてあげましょうか?」
「我慢して。
騒ぎになっちゃうから」
「なんだその不細工な犬は?」
私の中で何かがぷつん、と切れて、気付いたらスコップを振りかざしていた。
振り下ろそうとした間際で、私のジャンパーが後ろに引っ張られ、その勢いで私は尻もちをついた。
私の手から投げ出されたスコップは、傍らの雪の山に刺さった。
「あなたが手を出したら、騒ぎになりますよ」
私を止めたのはチャンミンだった。
今は不細工であっても、チャンミンは進化の途中なのだ。
今は例え不格好であっても、大人になれば...もしかしたら...美しい生き物に変化するのだ...きっと。
男は私に近づくと、私のあごを片手でつかんだ。
指が頬に食い込んで痛かった。
「相変わらず綺麗な顔をしている」
私は即座に顔を背けた。
顔を見られるのは...嫌いだ。
チャンミンの喉を鳴らす音がより大きくなったので、私は手を振って襲ったりしないよう彼を制止した。
男に負けるものか、と私は彼に向き直って、眼力を込めて睨みつけた。
男は私から手を離すと、私の狂暴な眼に怯んだ自身を隠すかのように、その場に唾を吐き捨てた。
もし私が大人の女の人だったら、ユノさんを「放っておかない」...大人の男の人だったとしても同様だと思った。
ユノさんを好きになる人は、いい人であって欲しいと思った。
車に乗り込んだ二人が雪原の彼方に消えたのを見届けた時。
チャンミンは見事なジャンプ力で貼り紙に飛びついた。
地面に着地すると、むしり取ったそれをむしゃむしゃ食べてしまった。
私は男が唾を吐いたあたりの雪をすくい、前庭の外へと投げ捨てた。
ユノさんを守った満足感でいっぱいだった。
チャンミンと顔を見合わせ、頷き合った。
ユノさんに守られているばかりでいられない。
私も強くならないと。
・
誕生日を翌々日に控え、私はその準備に勤しんでいた。
輪っかにした折り紙を繋いだもので、壁を飾り付けた。
ギンガムチェックのテーブルクロスにアイロンをかけた。
花はユノさんが仕事帰りに買ってきてくれる予定になっている。
去年まではここまでのことはしなかった。
ユノさんの為に編んだセーターも3日前には完成し、包装紙に包まれ私の部屋に隠してある。
チャンミンとタミーへのプレゼントも、ちゃんと用意してある。
今日やるべき用意は済んだので、私は読書の続きに戻ることにした。
主人公の娘が父親くらい年の離れた男性に恋をする物語に、私は胸をときめかしていた。
ページをめくるたび、チャンミンにポップコーンを放ってやる。
チャンミンは私の指先の動きに注視しており、ポップコーンを摘まむと同時に口を開ける。
5回に1回は意地悪をして、そのポップコーンは私の口に入ってしまう。
チャンミンはじつに恨めしそうな眼で、私をじぃっと見上げていた。
「あっ!」
チャンミンは私の靴下を引っ張り脱がすと、それを咥えて行ってしまう。
「こら!」
台所のシンクの下で、私の靴下をしゃぶるチャンミンを抱き上げた。
これまで何度、頬ずりしただろう。
チャンミンのお腹に頬を埋めた。
いつまでこうしていられるだろう。
裸足の足裏に、台所のタイル床は氷のように冷たかった。
・
チャンミンを抱っこしたまま窓辺に近づいた。
窓ガラスが白く凍りつき、外の景色を見渡せない。
ガラスを透かして雪灯が注ぎ込み、室内を薄明るく照らしていた。
人里離れたこの地の日中、動物たちはじっと身を潜めているか、もしくは冬眠してしまっている。
雪は音を吸い込んでしまうし、風が揺らすはずの草木の葉は秋のうちに落ちてしまった。
静かな午後。
静寂過ぎて、別荘地の川のせせらぎ音がここまで聞こえてきそうだった。
白々とした明るさに満ち、静まり返った室内にいると、思い出すことがある。
雪灯りにチャンミンの琥珀色の瞳は、ハチミツ色に透けていた。
「ん?」というように、チャンミンは私を見上げる。
白いまつ毛に縁どられた大きな大きな眼。
視力があるのか疑ってしまうくらい美しい瞳だ。
チャンミンに見つめられて、瞳の中に溶けてしまいそうだった。
鮮明に思い出しても、今の私なら平気だ。
2年前に起こったことを。
(つづく)
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