ユノの人差し指に、ラムネのグロテスクな足指が巻き付いている。
「その小さな頭で何を考えてる?
お前は悩み事はあるのか?」
その指を目の高さまで持ち上げ、ユノはラムネを覗き込んでそう話しかけていた。
透明ゴーグルとマスク、当然手袋を装着している。
「そんなに接近したら、ラムネがびっくりするよ」
「ふん。
毎日俺が世話をしてやってるんだ。
いい加減慣れただろうよ」
「まあ...その通りだけど」
新刊本が入荷した日など、結末を知りたくて徹夜で読書に夢中になった結果、僕は寝坊してしまうのだ。
ユノは起床してこない僕を待たずに早朝の散歩に出かけ、ラムネのエサやりや籠の掃除を済ませてしまうのだ。
動物を愛でることで傷ついた心を癒している...その通りだけど、ユノの場合は単純に動物が好きなだけなんだろうな。
日光が反射したゴーグルの下で、ユノの黒目がちの眼は三日月に細められているだろう。
かつての結婚生活で、ユノ夫妻は犬か猫を飼っていそうだ...なんとなく、そんな感じがする。
結婚かぁ...ユノのパーソナルエリアに侵入することを許された人。
僕だって負けてはいない、1週間前にキスをしたんだ(2枚のマスクを通してだけど)...これって凄いことだ。
出逢って1か月位しか経っていないんだよ。
ユノの言う気になる人とは十中八九、僕のことだと思う。
入所したその日から付きまとい始めた僕に懐いてしまい、刷り込みを恋に似たものだと誤解しているんだ。
喪失への対処法として、僕は小箱の中に押し込んでしまい、ユノの場合は代わりの温もりを求めたんだ。
いいのかなぁ...スタッフにバレなければいいのだけど。
「鳴いてごらん?」
厳重に管理された無菌ルームで、世界に1羽だけの貴重な小鳥の観察世話をする研究所員、みたいない出で立ちのユノ。
そんなユノの姿を、僕は少し離れたところから眺めていた。
ユノはとてもリラックスしているように見える。
なぜなら、ガラスを透かす日光にホコリとラムネの羽毛が舞っていることを、ユノは気にしていない風だったから。
本人が話していた通り、ユノの潔癖度合いにムラが生じるようになっているかもしれない。
亡き人を悲しむことに集中できない、それどころか『気になる人』の存在のせいで、他人と自分とどちらの汚染を気にしたらいいのか混乱していると...ユノの話から僕はこう捉えた(多少のニュアンスは異なっているだろうけど)
「ラムネちゃん、鳴いてごらん?」
声音がおかしくなってるって、気付いていないみたいだ。
ラムネの薄ピンク色の嘴が、コツコツとゴーグルを突っついた。
「!!」
ラムネの突然の反撃に、びっくりしたユノは後ろに飛び退った。
ラムネはユノの指から羽ばたき、温室内を旋回したのち彼の頭の上に着地した。
そんなユノが可愛らしくて大笑いする僕に、彼はムッとしていたけれど、すぐに一緒に笑い出した。
・
「『LOST』は有と無の境界に建っているみたいだな」
「境界かぁ...確かに」
僕らは中庭のフェンス前に立って、その向こうを眺めていた。
中庭の逆側...LOSTのエントランスがある側は、通行量の多い道路に面しており、半径2km以内に公共機関や繁華街、住宅地、オフィス街、学校など、すべて揃っているそうだ。
僕はフェンスの金網におでこをくっ付けて、遥か遠くを見つめた。
「チャンミンはどこに住んでた?」
ユノはポケットに両手をつっこんで、フェンスから1メートル離れた位置に立っている。
「僕が住んでたとこは、あっち」
「へえ、遠くまで来たんだなぁ」
「そうなんだよねぇ。
...でも、閉じ込められるんだから、どこにいたって変わんないよね。
ユノは?」
「俺はこっち。
もとはあっちに住んでたんだけど、仕事の関係で引っ越してきたんだ」
「?」
突然ユノに手を握られ、心臓が一瞬、喉のあたりまで飛び出しそうに驚いた。
だって、無人の中庭だとは言え、ここは外なんだよ。
ユノって...第一印象はツンデレ風なのに、実際は人懐っこくて、かつ積極的なタイプなんだ。
僕はユノに応えて、指同士を絡めて繋ぎ返した。
でも、恥ずかしくて仕方がなくて、前方を向いたままでいた。
熱々の頬を、前方から吹く乾いた風が冷やしてくれる。
この日のワンピース...橙色...の裾がはためく。
視線を感じて振り向いた。
中庭は入所者の部屋が並ぶ側だから、スタッフが外を眺める可能性は低い。
でも、面談室や洗濯室に面しているから、誰に目撃されるか知れない。
気をつけないと。
「このフェンス...よじ登るのは難しそうだな」
「そりゃそうだよ」
3メートルはあるフェンスの上辺には、大仰なネズミ返しが取り付けられている。
「てっぺんまで行く前に、サーチライトで照らされて捕獲されちゃうよ」
その光景を想像したのか、ユノは顔をゆがめた。
「地平線まで、『わあぁぁ』って叫びながらさ、走ったら気持ちいいだろうなぁ」
「有機物は少ないし、空気は乾いているし、マスク無しでいけそうだねぇ。
え!?
...ここから逃げ出したいの?」
「まさか!」とユノは目を丸くした。
中庭のフェンスの前に広がるのは、広大な砂漠だった。
(つづく)
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