~ユノ~
今月に入って4度目の外出だった。
チャンミンは不貞腐れるのではなく、不安げな表情を見せるようになった。
普通じゃないことが起きていると、察しているのだろう。
電話が鳴る頻度が高いことに、チャンミンは興味と不安を覚え始めたようだ。
リビングや寝室に置きっぱなしにしたスマホを、俺の入浴中などの間に、チャンミンが何度か盗み見していたことを知っている。
突如スマホを肌身離さず持ち歩くようになったら、余計に不審がられることを恐れた結果だ。
俺はそのことに気づかないフリをしてしまったが、そろそろきちんと説明すべき頃だと思い始めていた。
・
俺は今、いくつかのことを同時進行させていた。
その一つは、俺が俺の仲介者に紛して、彼...買い主の甥と接触していることだ。
俺の素顔をさらしてまで会う価値はないため、電話越しに甥の出方を探っていた。
手っ取り早く安全に解決する方法とは、チャンミンが言った通り、甥を黙らせるだけの金額を提示し、専門家の仲介のもと『二度と接近しない』等念書を条件に渡す。
あの店のオーナーが甥だったと知った時、あの地の縁から逃れることとは、巡り巡って買い主の一族と縁を切ることに繋がると気付いたのだ。
俺自身の時と肉体の代償をなぜ、台無しにした者に支払わないといけないのだろう?
ゆすられる弱みはなく、記録上では俺の存在は確かなもので、彼に金をやる義理は一切ないが、いち早く縁を切るには、金で解決するのが一番の方法だ。
だが、ただで金をやる方法はとりたくなかった。
そこで俺の中で、ある計画が立ち上がったのだ。
ここで、甥が本物の「孫」と会ったことがないことを活かせるのだ。
欲と絶望が渦巻くあそこの地縁は根深いもので、彼は必ずあの店以外にも関与しているはずだと俺は読んでいた。
順を追ってひとつひとつ計画を遂行していったところ、事態が大きく動いた。
計画の仕上げに近づいたこれからは、身辺に気を配らなければならないかもしれない。
俺の家に出入りするチャンミンもマークされているだろうから、計画が完了するまで引きこもっているように注意をしておこう。
大袈裟過ぎるが、何かが起こってからは遅いからだ。
・
朝から雨降りだった。
今日も出掛ける俺に、チャンミンの表情は曇った。
「今日で用事は終わるよ。
明日からはずっといるからな」
「......」
チャンミンは俯き、それから頭を上げて俺を睨みつけた。
「どこに行くんですか?」と、初めて行き先について尋ねられた。
チャンミンは俺のパーカーを着ただけで、細い素足にニットの靴下を履いていた。
後ろ髪は寝ぐせではねていた。
「銀行とアシスタントの彼女と会う約束がある」
鋭いチャンミンのために、嘘はつかなかった。
「ホントですか?」
「ああ」
「女の人とえっちしないでくださいね?」
「はあ...。
仕事で会うんだ。
するわけがない」
「ならいいですけど...」
「家でいい子にしておいで。
今日は寒いから、出掛けるのは控えた方がいい」
チャンミンを抱き寄せた。
「風邪をひいて欲しくないから」
チャンミンは俺の腕から身を起こすと、眉間にシワを寄せた。
「お兄さん!
忘れてませんか?
明日は誕生日です。
誕生日パーティですよ」
「あー!
そうだったね」
誕生日のことはすっかり、頭から抜けていた。
小さな子供になってしまったチャンミンは、パンパンに頬を膨らませている。
「そこ...まだ痛むか?」
だいぶ薄くなってきたチャンミンの両手首の痣を指さした。
「痛くないです」
つい数日前にしたセックスの名残だった。
「誕生日、楽しみだなぁ。
パーティを開くんだろ?」
「...そうですけど...」
渋々そうな言い方だったが、機嫌を直した証拠にその目は輝いていた。
「行ってきます。
留守番、よろしくな」
チャンミンと軽いキスを交わし、俺は部屋を出た。
・
自由を得るためには痛みが伴う。
・
銀行に寄り必要な手続きを終わらせた後、ホテルのロビーでアシスタントの女性と落ち合った。
「今まで世話になった。
報酬は振り込んであるから」
彼女と握手を交わした。
「今までありがとう」
「ユノさんも、お気をつけて」
俺が現世の人間として生きてゆくための足場作りに、彼女はよく動いてくれた。
チャンミンの件でも世話になった。
俺の買い主は、俺から時と尊厳を奪ったが、金と一緒に、見守り役としてアシスタントの彼女を与えてくれた。
彼がしたことは許されないことだが、その点に関しては小指の爪先程度の感謝の気持ちは持っている。
・
その後、俺は役所に立ち寄り、必要な書類を発行してもらった。
ここからあの店があった所までは、タクシーで5分程だ。
靴が濡れるだろうが、歩いていくことにした。
傘をさすほどまではない細かい雨で、コートの襟をかき合わせた。
あの店で俺とチャンミンは出逢い、すべてが始まった。
飲み屋街をしばらく歩き、ラブホテルと風俗店の間の軒先の、人ひとりがやっと通れるだけの路地を突っ切った。
ゴミのポリバケツや段ボール箱、壊れた家電がごたごた置かれ、煙草の吸殻や使用済みコンドームが捨てられた極めて薄汚い道だ。
突き当りは黄色いバリケードで塞がれており、そこをまたいで裏路地に出た。
数台の重機が稼働中で、エンジンとドリルの音が一帯に響き渡っている。
トラックの荷台には、コンクリートの瓦礫が積まれていた。
しばし、俺はこの光景を眺めていた。
そこそこの身なりの男が立ち寄るのに相応しくない場所だが、作業員たちは俺の存在を無視していた。
俺こそがこの工事の依頼主であり、ここ一帯の所有者だとは、作業員たちは知らない。
そう。
俺はあの店だけじゃ足らず、この裏路地一帯の地を買い占めたのだ。
営業していた店の者たちは追い出すという、極めて強引な手を使った。
結果、財産の大半は失われたが。
全て更地になってから、チャンミンに披露しようと思った。
あの店だけが無くなるだけじゃ生温い。
この一帯を...隣の店も、斜め向かいの店も、同じ類のものを売っていた...消してしまおうと考えたのだ。
この手の店が軒を連ねる地区がひとつ消えても、また別の地で出没すると分かっている。
この地を消したい衝動は、チャンミンよりも俺の方が強烈だ。
俺の方がより、この地の呪縛に捕まっているからだ。
その訳を、チャンミンに話してあげようと思った。
・
30分程はそこにいただろうか。
雨足が強くなってきた。
留守番しているチャンミンを思い出した。
きびすを返し、繁華街の道へと戻るため、もと来た軒下の路地へ足を向けた。
軒から落ちる氷交じりの雨音と、建物から漏れる、ビデオかリアルかどちらかの喘ぎ声。
背後の気配で直ぐに察した。
下腹に力がこもった。
「俺に乱暴しても、何も解決しないし、事態は変わらない」と、内心でため息をついた。
単なる腹いせのものだと分かっていたから、死ぬようなことはないだろう...と思いかけて、それが楽観的過ぎる考えだと訂正した。
俺が死ねば明らかに得をする存在を、思い出したのだ。
場所が悪い。
事態の深刻さに気付くまで、ひと呼吸遅れてしまった。
~チャンミン~
玄関ドアが閉まった後、お兄さんが忘れ物を取りに戻ることもあり得るから、たっぷり15分は待った。
「よし!」
僕は衣裳部屋に走り、スーツを着た。
お兄さんと僕はサイズが似ているし、彼が着替えるところを観察していたから、着られないことはない。
でもネクタイは最初から諦めた。
慣れない恰好をして、自信なさげな一人の男が鏡に映っている。
首の色素沈着の痕は薄くなっている。
お兄さんの家でたくさん美味しいものを食べ、お風呂に入って、プールで泳いで、勉強をして、植物を育てて、...それからそれから、お兄さんにいっぱい可愛がってもらったおかげだ。
お兄さんからプレゼントされたチョーカーを付けた。
綺麗な青色をした、シープスキンのやわらかい素材で出来ている。
喉仏のあたりで揺れるチャームを、指先で揺らした。
衣裳部屋のダウンライトの灯りで、ダイヤモンドがキラキラと瞬いた。
「よし!」
洗面所で、お兄さんのヘアワックスとくしを使って、髪を整えた。
有能な銀行マンに見えなくもない。
帰りが遅くなってしまった時、お兄さんに心配かけたくないので、メモを残していくことにした。
『オニーサンヘ
デカケテキマス。
ユウガタマデニカエリマス。
シンパイシナイデクダサイ。
チャンミンヨリ』
足が痛くなるだろうな、と思いながら、お兄さんの革靴を履いた。
マフラーをぐるぐる巻きにして、チョーカーを隠した。
・
お兄さんへの誕生日プレゼント。
お金じゃ買えないものに決めた。
首に赤いリボンを結ぶんだ。
ラブラブの恋人同士がよくやることらしい。
僕はお金では買えない。
お金では買えないものをお兄さんにあげるね。
お兄さんに僕の全部をあげるね。
僕の全部を貰ってね。
お兄さん...ユノさん。
僕はあなたのものになりたい。
(つづく)
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