~チャンミン~
今日やるべきことを全て済ませた僕は、例の場所に寄ってみることにした。
解体した店の敷地がどうなっているのか、目にしてみたくなったんだ。
後になって思うと、何かしらの危機を察していたのかもしれない。
一度お兄さんと訪れたあの店の場所は、よく覚えている。
大きな雨粒がぼたぼたと傘を打ち、取っ手にその振動が伝わってくる。
水が沁みて濡れた革靴の指先が、凍り付きそうだった。
繁華街は多くの店が営業時間外のため、人通りは少ない。
「...!?」
僕は立ち止まった。
それは怒鳴り声だった。
トラブルに巻き込まれたくない通行人は足早に、うつむき加減で声がする辺りを通り過ぎていた。
けれども僕は、無視するわけにはいけない。
ガシャンと物が倒れる音もした。
その音はラブホテルと居酒屋のあたりからで、そこは裏通りに繋がる細路地がある場所なのだ。
この細路地を通らないと、あの店があった裏路地へはたどり着けない。
少なくとも3人の声がするし、この近辺は治安がよいとは言えないから、喧嘩だろう。
困ったなぁ、と思った。
細路地を塞いでもらったら困るなぁと思いながら、彼らに気づかれないよう、そうっと覗いてみた。
・
「...!」
2人の男が、うずくまった男を蹴り飛ばしていた。
乱暴している者たちは意外にもチンピラ風ではなく、黒いコートを着たスーツ姿、もう片方は小洒落た恰好をした若い男だった。
「てめぇのせいなんだよ」
「ざけんな」
と怒鳴っている。
僕は迷った。
仲裁に入るか入らざるべきか。
ついに横たわってしまった男は頭を守り、蹴られるがままでいる。
どうしよう...僕は弱い。
でも、あんなに蹴られたら、あの人は死んでしまう!
「......!」
男の1人が、壁際に捨て置かれたサラダ油の一斗缶を掴んだ。
あれで殴ろうとしているんだ!
覗き見で済ませられなくなったその時。
心臓が握りつぶされたような...氷水に突き落とされたようなショックに襲われた。
「やめろー!」
2人は僕の叫び声にハッとし、一斗缶を振りかざした腕が一時停止した。
僕は突っ立った男を押しのけ突きとばし、お兄さんの元に駆け寄った。
お兄さんの顔は血で汚れていて、両目をきゅっと閉じていた。
僕は膝まずき、お兄さんの頭をかき抱いた。
「お兄さん、お兄さん?」
お兄さんの頭を支えた僕の手が、血で濡れた。
雨粒が血を洗い流し、お兄さんの真っ白な肌が現れ、額から流れ落ちる血ですぐに白い肌は赤く汚れた。
お兄さんの白くしなやかな手は力なく、汚い地面に落とされている。
どうしよう...。
突如乱入してきた僕に、男たちはあっけにとられていたが、すぐに我に返ったようだった。
「なんだ、てめぇ?」
「おらぁ?」
次のターゲットは僕に移った。
こぶしを振り上げ僕を威嚇する彼らを睨みつけた。
緊迫したこの時、僕は彼らを観察していた。
...なるほど、同類はすぐに分かる。
醜く顔を歪ませた彼らは痩せた体形で、整った顔立ちをしていた。
でも、どこか荒んだ雰囲気を漂わせていた。
刃物は持っていない。
お兄さんは彼らにやられっぱなしで、手をあげていなかった証拠に、彼らの顔は傷一つなかった。
彼らも人を殴ることに慣れていないようだ。
力仕事も日焼けも知らない白いこぶしは擦り剝け、血が滲んでいた。
彼らがお兄さんに怒りをぶつけたワケが分かった。
自由になったことを喜ばない『犬』たちがいるだろうと、かつてお兄さんは話していた。
「どけよ!」
僕は蹴られた。
脇腹に激痛が走り、歯を食いしばって耐えた。
「おらぁ?」
次は背中を蹴られた。
お兄さんをかき抱いた両腕に力をこめ、地面につき倒されないよう耐えた。
「離せよ。
俺らはこいつに用があるんだ」
「お兄さんに触るな!」
僕は叫んだ。
「なんだてめぇ。
こいつの仲間か?」
一斗缶を放り捨てた男が、僕とお兄さんを引き離そうとした。
「うるさい!
お兄さんに触るな!」
僕は喧嘩の仕方を知らない。
叫び、お兄さんの盾になることしかできない。
「あっち行け!
お兄さんに触るな!」
身体を丸め、三打目の蹴りを背中に受け止めながら、この危機をどう抜け出せるか頭を巡らせた。
繁華街の通りまでは何メートルもあり、通行人は見て見ぬふりをしている。
でも、一か八か...。
僕はお兄さんを地面に寝かせた。
バネのように立ち上がり、通りに向かって走り出し、男たちに突進し、突き飛ばした。
「助けて!
助けて!」
通りに飛び出した僕は叫んだ。
通行人たちは足を止めた。
「警察!
警察、警察!」
通行人たちは僕に注目し、そのうち何人かが駆け寄ってきた。
「助けて!」
あんなに大きな声で怒鳴ったのは生まれて初めてだったと思う。
カッコ悪い突破方法だったと思われるかもしれない。
お兄さんをボコボコにした仕返しに、彼らを殴るべきだった、と。
僕はそれができない。
喧嘩の経験がなく、弱すぎて、こぶしはかすりもせず空振りし、倍返しでボコボコにされてしまうだろう。
結局、喧嘩に慣れていない彼らはぶっ倒れた僕に怖気づいて、逃げだしてしまうだろう。
今回のことでよく分かったのは、僕とお兄さんはいかに平和な...暴力とは無縁の...世界に生きているか、ということだ。
これって、感謝すべきことだと思った。
・
ふり返ったら、細路地の男たちは消えていた。
僕はお兄さんの元に駆け戻った。
「お兄さん、お兄さん!」
頭を揺すったらいけないと思い、お兄さんの手を握ったり擦ったりした。
「お兄さん!」
「...っ」
お兄さんの目がうっすらと開いた。
「...チャンミン?」
屋外で、お兄さんの顔をこんなに間近で見下ろしたことはなかった。
雨降りだけど屋外は室内よりも明るい。
雨粒をはじくお兄さんのきめの細かい肌、漆黒の短いまつ毛、そして眼は潤んでいて光を宿していて...ああ、よかった、と安心して力が抜けた。
「お兄さん、大丈夫ですから。
全部、終わらせましたから」
「...チャンミン?」
よかった...お兄さんが無事で本当によかった。
「全部終わりましたよ」
「終わったって、どういうこと?
教えてくれる?」
お兄さんの声を聞いたら、身体の力が抜けた。
「お兄さ~ん...怖かった。
怖かったよ~」
「...そうだね。
俺も怖かった」
首筋に鼻をこすりつけた。
お兄さんの片手が持ち上がり、僕の後頭部を撫ぜた。
お兄さんから借りたコートもスーツもドロドロでびちょびちょで...お兄さんはもっと酷い有様...僕らはお互いの無事を確かめあった。
(つづく)
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