(49)あなたのものになりたい

 

 

 

~ユノ~

 

今月に入って4度目の外出だった。

 

チャンミンは不貞腐れるのではなく、不安げな表情を見せるようになった。

 

普通じゃないことが起きていると、察しているのだろう。

 

電話が鳴る頻度が高いことに、チャンミンは興味と不安を覚え始めたようだ。

 

リビングや寝室に置きっぱなしにしたスマホを、俺の入浴中などの間に、チャンミンが何度か盗み見していたことを知っている。

 

突如スマホを肌身離さず持ち歩くようになったら、余計に不審がられることを恐れた結果だ。

 

俺はそのことに気づかないフリをしてしまったが、そろそろきちんと説明すべき頃だと思い始めていた。

 

 

俺は今、いくつかのことを同時進行させていた。

 

その一つは、俺が俺の仲介者に紛して、彼...買い主の甥と接触していることだ。

 

俺の素顔をさらしてまで会う価値はないため、電話越しに甥の出方を探っていた。

 

手っ取り早く安全に解決する方法とは、チャンミンが言った通り、甥を黙らせるだけの金額を提示し、専門家の仲介のもと『二度と接近しない』等念書を条件に渡す。

 

あの店のオーナーが甥だったと知った時、あの地の縁から逃れることとは、巡り巡って買い主の一族と縁を切ることに繋がると気付いたのだ。

 

俺自身の時と肉体の代償をなぜ、台無しにした者に支払わないといけないのだろう?

 

ゆすられる弱みはなく、記録上では俺の存在は確かなもので、彼に金をやる義理は一切ないが、いち早く縁を切るには、金で解決するのが一番の方法だ。

 

だが、ただで金をやる方法はとりたくなかった。

 

そこで俺の中で、ある計画が立ち上がったのだ。

 

ここで、甥が本物の「孫」と会ったことがないことを活かせるのだ。

 

欲と絶望が渦巻くあそこの地縁は根深いもので、彼は必ずあの店以外にも関与しているはずだと俺は読んでいた。

 

順を追ってひとつひとつ計画を遂行していったところ、事態が大きく動いた。

 

計画の仕上げに近づいたこれからは、身辺に気を配らなければならないかもしれない。

 

俺の家に出入りするチャンミンもマークされているだろうから、計画が完了するまで引きこもっているように注意をしておこう。

 

大袈裟過ぎるが、何かが起こってからは遅いからだ。

 

 

朝から雨降りだった。

 

今日も出掛ける俺に、チャンミンの表情は曇った。

 

「今日で用事は終わるよ。

明日からはずっといるからな」

 

「......」

 

チャンミンは俯き、それから頭を上げて俺を睨みつけた。

 

「どこに行くんですか?」と、初めて行き先について尋ねられた。

 

チャンミンは俺のパーカーを着ただけで、細い素足にニットの靴下を履いていた。

 

後ろ髪は寝ぐせではねていた。

 

「銀行とアシスタントの彼女と会う約束がある」

 

鋭いチャンミンのために、嘘はつかなかった。

 

「ホントですか?」

 

「ああ」

 

「女の人とえっちしないでくださいね?」

 

「はあ...。

仕事で会うんだ。

するわけがない」

 

「ならいいですけど...」

 

「家でいい子にしておいで。

今日は寒いから、出掛けるのは控えた方がいい」

 

チャンミンを抱き寄せた。

 

「風邪をひいて欲しくないから」

 

チャンミンは俺の腕から身を起こすと、眉間にシワを寄せた。

 

「お兄さん!

忘れてませんか?

明日は誕生日です。

誕生日パーティですよ」

 

「あー!

そうだったね」

 

誕生日のことはすっかり、頭から抜けていた。

 

小さな子供になってしまったチャンミンは、パンパンに頬を膨らませている。

 

「そこ...まだ痛むか?」

 

だいぶ薄くなってきたチャンミンの両手首の痣を指さした。

 

「痛くないです」

 

つい数日前にしたセックスの名残だった。

 

「誕生日、楽しみだなぁ。

パーティを開くんだろ?」

 

「...そうですけど...」

 

渋々そうな言い方だったが、機嫌を直した証拠にその目は輝いていた。

 

「行ってきます。

留守番、よろしくな」

 

チャンミンと軽いキスを交わし、俺は部屋を出た。

 

 

自由を得るためには痛みが伴う。

 

 

銀行に寄り必要な手続きを終わらせた後、ホテルのロビーでアシスタントの女性と落ち合った。

 

「今まで世話になった。

報酬は振り込んであるから」

 

彼女と握手を交わした。

 

「今までありがとう」

 

「ユノさんも、お気をつけて」

 

俺が現世の人間として生きてゆくための足場作りに、彼女はよく動いてくれた。

 

チャンミンの件でも世話になった。

 

俺の買い主は、俺から時と尊厳を奪ったが、金と一緒に、見守り役としてアシスタントの彼女を与えてくれた。

 

彼がしたことは許されないことだが、その点に関しては小指の爪先程度の感謝の気持ちは持っている。

 

 

その後、俺は役所に立ち寄り、必要な書類を発行してもらった。

 

ここからあの店があった所までは、タクシーで5分程だ。

 

靴が濡れるだろうが、歩いていくことにした。

 

傘をさすほどまではない細かい雨で、コートの襟をかき合わせた。

 

あの店で俺とチャンミンは出逢い、すべてが始まった。

 

飲み屋街をしばらく歩き、ラブホテルと風俗店の間の軒先の、人ひとりがやっと通れるだけの路地を突っ切った。

 

ゴミのポリバケツや段ボール箱、壊れた家電がごたごた置かれ、煙草の吸殻や使用済みコンドームが捨てられた極めて薄汚い道だ。

 

突き当りは黄色いバリケードで塞がれており、そこをまたいで裏路地に出た。

 

数台の重機が稼働中で、エンジンとドリルの音が一帯に響き渡っている。

 

トラックの荷台には、コンクリートの瓦礫が積まれていた。

 

しばし、俺はこの光景を眺めていた。

 

そこそこの身なりの男が立ち寄るのに相応しくない場所だが、作業員たちは俺の存在を無視していた。

 

俺こそがこの工事の依頼主であり、ここ一帯の所有者だとは、作業員たちは知らない。

 

そう。

 

俺はあの店だけじゃ足らず、この裏路地一帯の地を買い占めたのだ。

 

営業していた店の者たちは追い出すという、極めて強引な手を使った。

 

結果、財産の大半は失われたが。

 

全て更地になってから、チャンミンに披露しようと思った。

 

あの店だけが無くなるだけじゃ生温い。

 

この一帯を...隣の店も、斜め向かいの店も、同じ類のものを売っていた...消してしまおうと考えたのだ。

 

この手の店が軒を連ねる地区がひとつ消えても、また別の地で出没すると分かっている。

 

この地を消したい衝動は、チャンミンよりも俺の方が強烈だ。

 

俺の方がより、この地の呪縛に捕まっているからだ。

 

その訳を、チャンミンに話してあげようと思った。

 

 

30分程はそこにいただろうか。

 

雨足が強くなってきた。

 

留守番しているチャンミンを思い出した。

 

きびすを返し、繁華街の道へと戻るため、もと来た軒下の路地へ足を向けた。

 

軒から落ちる氷交じりの雨音と、建物から漏れる、ビデオかリアルかどちらかの喘ぎ声。

 

背後の気配で直ぐに察した。

 

下腹に力がこもった。

 

「俺に乱暴しても、何も解決しないし、事態は変わらない」と、内心でため息をついた。

 

単なる腹いせのものだと分かっていたから、死ぬようなことはないだろう...と思いかけて、それが楽観的過ぎる考えだと訂正した。

 

俺が死ねば明らかに得をする存在を、思い出したのだ。

 

場所が悪い。

 

事態の深刻さに気付くまで、ひと呼吸遅れてしまった。

 

 


 

 

~チャンミン~

 

 

玄関ドアが閉まった後、お兄さんが忘れ物を取りに戻ることもあり得るから、たっぷり15分は待った。

 

「よし!」

 

僕は衣裳部屋に走り、スーツを着た。

 

お兄さんと僕はサイズが似ているし、彼が着替えるところを観察していたから、着られないことはない。

 

でもネクタイは最初から諦めた。

 

慣れない恰好をして、自信なさげな一人の男が鏡に映っている。

 

首の色素沈着の痕は薄くなっている。

 

お兄さんの家でたくさん美味しいものを食べ、お風呂に入って、プールで泳いで、勉強をして、植物を育てて、...それからそれから、お兄さんにいっぱい可愛がってもらったおかげだ。

 

お兄さんからプレゼントされたチョーカーを付けた。

 

綺麗な青色をした、シープスキンのやわらかい素材で出来ている。

 

喉仏のあたりで揺れるチャームを、指先で揺らした。

 

衣裳部屋のダウンライトの灯りで、ダイヤモンドがキラキラと瞬いた。

 

「よし!」

 

洗面所で、お兄さんのヘアワックスとくしを使って、髪を整えた。

 

有能な銀行マンに見えなくもない。

 

帰りが遅くなってしまった時、お兄さんに心配かけたくないので、メモを残していくことにした。

 

『オニーサンヘ

デカケテキマス。

ユウガタマデニカエリマス。

シンパイシナイデクダサイ。

チャンミンヨリ』

 

足が痛くなるだろうな、と思いながら、お兄さんの革靴を履いた。

 

マフラーをぐるぐる巻きにして、チョーカーを隠した。

 

 

お兄さんへの誕生日プレゼント。

 

お金じゃ買えないものに決めた。

 

首に赤いリボンを結ぶんだ。

 

ラブラブの恋人同士がよくやることらしい。

 

僕はお金では買えない。

 

お金では買えないものをお兄さんにあげるね。

 

お兄さんに僕の全部をあげるね。

 

僕の全部を貰ってね。

 

お兄さん...ユノさん。

 

僕はあなたのものになりたい。

 

 

(つづく)

 

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