「また『あの』教習生か?」
昼休憩時間、ため息をついてデスクに伏せるチャンミンに、同僚Kは声をかけた。
「ああ」
「今日は何をやらかした?」
「交通事故を起こすところだった...って、場内で交通事故もないのだけどさ」
『あの』教習生とはご存知、ユノのことである。
不良教習生なユノのせいで、チャンミンはここ2週間の間、ため息ばかりついていた。
ため息1つで1歳老けるとしたら、チャンミンはわずか1週間で100を超えた老爺になっていただろう。
「上達云々の前に、そもそも運転センスがないのかもしれない...」
「センスとなると絶望的だね。
特訓である程度マシになるかもしれないが...。
となると、どんだけ補習がいるんだ?ってなるなぁ」
この日チャンミンは、ユノの補習教習の5時間目を終えたところだった。
指導員のデスクが並ぶ教員室と受付カウンターは繋がっている。
休憩時間のカウンターの向こうは騒がしく、受付兼事務員Eさんがキャンセル枠があると、校内放送をかけていた。
指導員のほとんどは休憩室か喫煙所に居て、教員室はチャンミンたちを含めて数人もいない。
地元パン屋が配達してきたパンが、カウンター脇のワゴンで販売中だ。
Kはパンを買うと、そのうちの1つをチャンミンに渡した。
「チャンミン...お前、ちゃんとメシ食ってるか?
げっそりしているぞ?」
Kはチャンミンの正面の椅子に腰掛け、背もたれに深くもたれかかって足を組んだ。
悩み事は今ここで全部吐き出せ、とKの表情が言っている。
チャンミンは悩み過ぎてぐつぐつ煮詰まってしまうタイプだった。
そこでKは同僚のよしみで、時折チャンミンのガス抜きをしてやるのだ。
「『あの』教習生のことで悩んでるんだろ?」
「う~ん」
そうでもあるし、そればかりでもなかったため、チャンミンは返事に困った。
「ユノが上達しないのは自分の教え方が悪いのでは?」と思い悩んでいたのは確か。
でも、それ以上に正体不明のザワザワ感に悩んでいた。。
一つ一つ挙げてゆくと、まず失恋問題について。
チャンミンにマッチョ男の恋人がいることをKは知っていたが、別れたこと(フラれてしまった)は未だ話していなかった。
悲しさのあまり、破局を打ち明けた途端泣いてしまいそうで...では、ないのだ。
恋人との別れは悲しい、悲しいが、なんとなく落ち着かない気持ちでザワザワしている。
チャンミンは恋において依存体質だ。
置き逃げされた恋人の私物を一掃したことは、未練を断ち切る行為に繋がって功を奏したと言える。
依存相手がいなくなり、心もとなさによるザワザワなのか。
不良教習生ユノに振り回されていて、感情が安定しないせいでのザワザワなのか。
もしくは、時折どこかから視線を感じていて、そのせいで落ち着かないザワザワなのか。
(正解、実際にユノから見つめられている)
(ユノのキラキラな目で見つめられているからだな、きっと。
学科教習中も、僕から目を離さないんだもの。
...そのわりに、ちゃんと話は聞いているし、メモも取っているし...いつも明るい優等生だ)
最近ではユノの視線攻撃に慣れてきていたし、悪い気は全然しなかった。
ユノが眉目秀麗な青年だったからこそ許された。
(チャンミンもなんだかんだ言って、面食いだった)
チャンミンは、「あの目は『恋』だな」といい気になる時もあったが、相手が10歳以上年下の大学生だと思い出しては、ザワザワと落ち着かなくなった。
...これらいくつものザワザワ感と、指導員としての自信を失いかけたこととのWパンチで、チャンミンは食欲を失っていた。
「今日のユノ君はどこまで進んだ?」
「停滞している。
3歩進んで2歩下がる感じだったのが、最近は、1歩進んで1歩下がってる。
試験を受けさせたくても、あと一歩のところで止まっているんだ」
「補習代も馬鹿にならないからね。
財布がもたないって、諦めた人もいるよ」
「Kは免許取得を諦めさせた人って、今までにいる?」
「過去に1人いるねぇ。
ただ、その人は70歳のおじいさんだったからなぁ...最初から難しいだろうってご本人も認識していたんだ」
「うちの子は20歳の大学生...。
運転テクニックに運動神経は関係ないとは言うけれど」
自分で口にしておきながら、『うちの子』の言葉に、チャンミンの胸はこそばゆくなった。
指導員にとって、担当教習生は『我が子』なのだ。
「今度飲みに行こうか?
チャンミンの悩みを聞かせてもらうよ」
Kは何が可笑しいのか、ニヤニヤ笑っている。
「!」
チャンミンは勢いよく後ろを振り向いた。
気配を感じたのだ。
(...あれ?)
Eさんは休憩にいってしまい、代わりの事務員がカウンターについている。
その向こうはがらん、と無人で、待合室の方から大音量のTVの音が聞こえてくるだけだ。
危なかった。
チャンミンが振り返ったその瞬間、ユノはカウンター下にしゃがみこんでいた。
教習簿を床に落としてしまったのだ。
そして、教習簿を落としてしまうまで、ユノはチャンミンを見つめていた。
(せんせの後頭部、かわいいなぁ。
ポカン、と叩きたくなるほどかわいいなぁ。
...せんせの前にいる先公はなんだなんだ?
K先生か。
単なる仕事仲間の関係だよな?
せんせは男が好きだから、次の彼氏候補じゃないよな?
やべ、K先生と目が合った。
目を反らしたの...バレバレだったよな。
ふう。
次の教習は、模擬テストだ。
問題集を出して、テスト勉強を...バッグから出して...。
あ...教習簿が滑り...落ちた!)
と、落ちた教習簿を拾おうとしゃがんだのある。
・
チャンミンが胃薬を欠かせなくなった原因が、もうひとつあった。
ユノの運転だ。
急発進急加速、エンストと内輪差を無視した左折と脱輪は日常茶飯事。
坂道発進に失敗して坂を転げ落ち(チャンミンが補助ブレーキを踏んで、周回する教習車との衝突をぎりぎり免れた)、駐車練習のポールとの接触、交差点の信号無視。
場内コースの暴走族。
チャンミンの左腕はグリップを握りっぱなしで、立派な筋トレになっている。
脇の下は汗でぐっしょり、濃い色のシャツは着てゆけないし、匂いエチケットに気を配るようになった。
ユノと乗る教習車は、ジェットコースター。
チャイムが鳴り、教習車から降りた時のチャンミンは、体重が500g減ったかのようだった。
同時期に担当になった50代のご婦人は、今や卒検を間近に控えている。
一方ユノと言えば、今日の仮免許の実車試験に落ちた。
不合格はこれで2度目だった。
仮免に落ちた場合、最低1時間の実車教習が必須だ。
ユノは1時間だけじゃ足らなさそうで...。
・
ぎゃぎゃっと嫌な音がした。
「クラッチ踏んで!」
「はい!」
「次、サードに入れて」
教習車はがっくんと急減速し、高回転のエンジン音がうるさい。
「そこじゃないです!」
「すみません!」
「セカンドに入れて。
左に寄せたまま下」
「はい」
教習車はノーマル状態で、惰行している。
「あれ?」
「クラッチから足を離して」
シフトレバーに乗せたユノの手は震えている。
教習車は減速し出して、カタカタと音をたてはじめた。
「ノックしてるよ。
ギア変えて」
「どっちですか?」
「サードです!」
「下ですか?
上ですか?」
「上です。
力を入れず、とんとん、です」
「あれ?
あれ?
ギアが...入りません!」
これまでの教習でチャンミンは、いっそのこと手と手を重ねて、ギアのタイミングを叩きこもうかと何度思ったことか。
一昔前なら可能な指導方法も、今は立派なセクハラ行為。
したくともできないのだ。
ユノの内心はプチパニック。
(どうして俺はこうも出来ないんだ?
せんせといられて嬉しいけれど、いくらなんでも酷すぎる)
ことごとくうまくいかない自分が情けなくて、泣きそうだった。
(つづく)
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