路上教習では、駐停車を練習する課目がある。
教習ルートは複数あり、そのルートごとに駐停車可能スポットがあり、そのうちのひとつがチャンミンのマンションの前だった。
この日、チャンミンがこのルートを選択したのは偶然で、他の教習車とかぶらないようにするためだった。
ユノはこのルートを走るのが初めてで、チャンミンの指示通りに右左折をするのがやっとだったため、まさかチャンミンが住むマンションに向かっているとは、全く気付けなかったのだ。
教習車の斜め左前方に、見覚えのある茶色のタイルのマンションが建っている。
見覚えがあるどころか、3日に1回は訪れている場所なのだ。
(なるほど!
そういうわけか!
ここなのか!
俺がせんせと再会できた運命の場所だ!)
「ここって、せんせ...」
と言いかけて、ユノは口を押さえた。
(やっべ~!
俺がせんせんちを知っていることは内緒だったんだ。
知ってたら、せんせを怯えさせてしまう。
『ユノさん、どうして僕の家を知っているのですか?』
『尾行したからです』って。
...怖すぎだろう?)
(※チャンミンの方も、ユノの友人の自宅を知っている)
幸いチャンミンはユノの動揺に気づかなかったようで、脇に建つ道路標識を指さし、一時停車と一時駐車の違いを説明し始めた。
(なるほどね。
以前、おばあさんにもこうやって説明をしていたなぁ)
チャンミンはラミネート加工したお手製の図解を取り出した。
「この道路は片側一車線の道路で、センターラインは白です」
(チャンミンの細い指に指毛が生えていることなんて、「こういう抜け感がせんせの魅力なんだよね」と、もっと早い段階でユノは知っている)
熱心に話を聞いているふりをして、ユノの意識はチャンミン側のサイドウィンドウ越し...茶色いタイルの10階建てマンション...にある。
「ユノさん?」
チャンミンは、上の空なユノを覗き込んだ。
(ヤバっ)
自分でやっておきながら、教習生相手に対して産毛が見える距離は近過ぎた。
チャンミンの視線は、ユノの毛穴レスな肌やぽってりとした下唇に釘付けだった。
「......」
一方、ユノの視線は、チャンミンの髭の剃り跡や一文字に引き結ばれた大きめの口に釘付けになった。
意識せずとも自動的に、二人の顔は1ミリずつ接近してゆく。
「......」
(せんせ...顔が近いです。
このままじゃあ、唇が衝突してしまいますよ)
(今は教習中教習中教習中教習中教習中教習中。
邪念よ、去れ。
でも...ちょっとくらいだったら...事故で済むかも...)
チャンミンの心の中にある、恋の暴走取り締まりセンサーが、黄点滅信号から警戒ゾーンに達したと、赤色点滅して知らせた。
「......」
二人の喉仏が、こくりと上下に震えた。
じわりじわりとユノの唇はチャンミンの方へと近づき、あともう少しで...。
(駄目だ!!)
...ふっ、とチャンミンの顔がユノの目の前から消えた。
「!?」
「それじゃあ、実際に目で見てみましょうか」
チャンミンは車を降りてしまったのだ。
(あっぶね~)
チャンミンは、図解シートを扇いで、ぽっぽと熱い首筋を冷却した。
車を降りたのはユノを避けるためではなく、興奮のクールダウンの為だった。
「ユノさんも、早く降りてください。
いつまでもここにいられないのです!」
ぽ~っと余韻に浸っていたところを、チャンミンの鋭い呼び声にユノの意識はこちらに戻ってきた。
(今のって...今のって。
俺の勘違いでなければ、キス...。
キスしそうだったと捉えてよろしいでしょうか、せんせ?)
そして、遅れて恥ずかしさがユノを襲った。
「キスしちゃうのかも...」と、ぽわんとバカ面で待ち構えていたのは自分だけだったのではと、穴があったら入りたい気持ちだった。
(ひとり勝手に勘違いして盛り上がって、バカみたいだ!)
「ユノさん!
ここ。
ここをよく見てください」
チャンミンは持参してきたメジャーで、路側帯と教習車のタイヤとの距離を測ってみせた。
「はい」
ユノはチャンミンの隣にしゃがむと、駐停車する際に路肩とのスペースの取り方についての説明を受けた。
頭には全く入ってこなかったが、「分かりました」と頷いてみせた。
次に、チャンミンは立ち上がると、消火栓のところまで走ってゆき、駐停車してはいけない場所について解説をした。
ユノは熱心に話すチャンミンを、ぼ~っとした表情で眺めていた。
「せんせが好き!」と熱々なハートに、切なさの風が吹いてきて、すうすうと寒くなってきたのだ。
つまり、キスの予感だと錯覚させるほどのムードだったのに、一瞬で離脱し、仕事の顔に戻ってしまった大人なチャンミンが、見上げなければならない存在だと思い知ったからだ。
「ユノさん!
僕の顔じゃなくて、こっちを見てください!」
「ごめんなさーい」
ユノにとって、これまでの教習時間はすべて楽しいに満ちていたけれど、この時間はチャンミンにとっては勤務時間であり、ユノに熱心になってくれるのは、それが仕事だからだと、あらためて気づかされた。
(せんせと一緒にいられるのは、教習車の中だけなんだ。
教習車を降りたせんせは知らない(住んでいるところと行きつけのレンタルDVD店、彼氏と別れたばかりだってことは知っているけどさ)
せんせとは、プライベートの繋がりが無い。
それってつまり、俺が卒業してしまったら、せんせとは縁が無くなってしまうってことだ!)
ユノのすうすうする感情を説明すると、上記のような内容になる。
(どうしよう。
俺...せんせのことが、マヂで好きだ)
それでは、チャンミンはどうなのか?
年の功で本心を巧妙に隠し通せていたと思っていた。
ところが、本気になり出してきて、センサーは常に黄色と赤色を行き来している。
(お願いだからそんな表情で僕を見ないで。
もう本気になりかけてるけど、正真正銘の本気になってしまうよ?
ユノの好意を受け止めようと、決心しかけているんだよ?
これまでの言動が僕をからかうものだとしたら、若いからってユノを許さないからね)
・
その後、ユノの路上教習はおおむね順調だった。
チャンミンに尾行されていた夜から10日間、キスしそうになった教習から一週間が経過していた。
その間、ユノは連絡先を尋ねられずにいた。
雑談はできる。
教習を終えて、教習簿を返してもらい、教習車を降りる...この間のどこかで、「連絡先を教えて下さい」と尋ねられない。
それから、「もしかしてキスするの?」と誤解するほど顔同士が接近してしまったことについても、
「ドキドキしちゃったじゃないですかぁ?
せんせはどうでした?」などと、チャンミンをからかう真似もできなかった。
チャンミンといえば、ユノのよそよそしさを感じ取っていた。
思い当たるのはやはり、1週間前の教習中に起こった出来事だろう。
ユノのシフトレバーとクラッチ操作は格段に上達し、ユノの手を合法的(?)に触れられる機会もゼロになってしまった。
他の教習生と比較して、ユノの習得度は遅れ気味で、その点は担当指導員として心配だった。
手がかかる生徒ほど可愛い...確かにその通りだ。
でも...指導員の立場でいる現実に、窮屈さを感じていた。
(あの時...僕はユノとキスがしたかった。
不純な想いを抱えて、教習車の助手席に乗り続けるのは辛い)
深夜のレンタルDVD店で偶然見かけた、リラックスしたユノを思い出すと、いいなぁと思った。
気軽に誘えない立場が悔しかった。
(...ユノはノンケだ。
僕の本性を知ったら、引いてしまうだろう)
(つづく)
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